『今日はごめん』
ライアンから送られてきたその短いメールを私が見たのは、木曜日の朝のことだった。
結局昨日はあのまま1人で黙々と夕食を食べ、1人分のお皿を洗い、ゆっくりと時間をかけてお風呂に入り、読みかけだった少しばかり背伸びして買ってみた小難しい小説を読み、良い感じにまどろんできたところで布団に入り、そのまますぐに眠りに落ちた。
相変わらず胸の奥では黒くもやもやしたものが蠢いていたが、私はまるで端から“何の約束”もなかったかのように、いつも通り、何の変哲もない穏やかな1人の時間を過ごした。
メールの受信時間は深夜1時過ぎ。私が床についた後だった。
恐らく彼は事件現場から撤収し、自宅に戻ってからメールを寄越したのだろう。
(変なところで律儀な人だ。)
呆れと感心の間のようなふんわりとした気持を抱きながら、私は誰が見ているわけでもないのにうっすらと笑みを湛えた。
朝食と身支度を軽く済ませ、時計を気にしながら慌ただしく歯磨きをする傍ら、私は片手で電話を操作し返信メールを作成する。
『いいよ お疲れ様でした』
送信ボタンを押しながら、我ながら簡素な文面のメールだなという考えが頭の片隅に浮かんだし、本当は他にもっと言いたいこと――主に心の奥底にある例の感情について――もあったが、今の私には得体の知れないものを上手くまとめられるような時間も自信も余裕もなかったため、「これでいい」と静かに自分に言い聞かせた。
このもやもやした気持ちも、うがいと一緒に簡単に吐き出せてしまえばいいのに。そんな馬鹿げたことを考えながらプラスチックのコップを手に取り口を濯いでいると、今し方洗濯籠の中に放り入れた携帯電話が着信音を鳴り響かせた。
この忙しい時間に一体誰だ、と眉根を寄せたが、本当のところ、誰からの着信かは私には粗方想像がついていた。
タオルで口元を拭い電話を手に取ると、ご名答。想像していた通りの相手の名前が画面には表示されていた。
「ちょっと、今時間無い…」
電話に出るやいなや苛々と私が不満を漏らすと、
『なあ、ちゃん。怒ってる?』
それに被せるように、電話の相手――ライアンは、どこか不安そうに尋ねてきた。
そんなことなどあるはずないのに、普段よりも電話がずっしりと重く感じる。
更にそれに加え、いつもの底抜けに明るい声ではなく落ち着いたトーンで話すライアンに私は微かな疑問を抱き、同時に違和感を覚える。
できることなら出会いたくなかった。私の胸中を掻き乱す新たなる不穏分子的感情の登場に、気が狂いそうだ。率直に、そう思ってしまった。
「どうして?」
複雑な感情を必死に隠すように私が淡々と疑問をぶつけると、彼は電話の向こうでふふっと息を吐くような笑い声を漏らした。
『……だってさあ~?メールの文面がいつもの三倍くらい素っ気ないから』
私の中でむくむくと育つ不穏な感情が消え去ったわけではないし、迷宮の出口にたどり着いたわけでもない。
しかし、暫し沈黙の後、いつもの調子を取り戻したように戯けながら宣う彼の声を聞き、私は反射的に少しだけ肩の力を抜いた。
「三倍って…いつもあんな感じじゃないの」
『そっかなぁ?』
「そう。それに、私は別に怒ってない」
怒ってない。そう、私は怒ってなどいない。
私の零した言葉に嘘はない。嘘はない、はずなのだが――
(こんなに息苦しいのは何故だろう)
『……そっか』
相槌を打つ機械を通した彼の声に少しだけ疑いの色を感じ取った私は耐えきれず、何かに縋るように、ぐっと電話を持っていない方の手を握りしめた。
「…うん。じゃあ私、仕事行くから切るね」
『あっ、ちょっ、待っ――』
電話が切れる寸前、彼が何かを言いかけていたのは勿論わかっていた。
しかしそれを半ば遮断する形で、私は一方的に通話を終了させた。
それは何故なのか。何故こんな子供じみた行動をとってしまったのか、自分でもわからない。
本当に、わからないことだらけなのだ。
忙しい時間に電話をしてきたことに対して怒っていたから?――ならば最初から電話に出なければよかっただけの話だ。
約束をドタキャンした彼への八つ当たり?――仕事だから仕方ないし、そんなの、するだけ無駄だとわかっている。
じゃあ――
やめよう。
次から次へとシャボン玉のように膨らんでは弾ける疑問と虚しさと自分への嫌悪感。それら全てを拒むように、私は力なく首を振る。
(息が詰まる。)
指先が微かに震えるのを感じながら手早く荷物をまとめると、私は酸素を求めるように部屋を飛び出し、まだそんなに焦る時間でもないのにも関わらず、足早に職場へと向かった。