Goldrushed!

#1


「悪い。好きな人ができた」
「はい?」

この男――つい数秒前まで私の彼氏“だった”男は、謝罪の言葉を口にし、そのまま地面にめり込みそうな勢いで深々と私に頭を下げる。
待て。 一体何をしているのだ。そして何を言っているのだろう、この男は。

まずは状況を整理しよう。
私が不本意な残業を終えて帰り支度を始めたとき、同じく残業をしていたという彼(今まさに私につむじを見せている男)から着信があり、「大事な話がある」と、昼間とは違い人気の無い職場の休憩スペースに呼び出される。
私は不審に思いながらも足早に向かい、自販機で買ってもらったコーヒーを受け取ったところまではよかった。
そう、ここまでは良い。ここまではいつも通り。何気ない私たちの日常の一コマだった。
しかし、彼がコーヒーを一口飲んでから躊躇いがちに、でもはっきりと「ワカレヨウ」という5文字の言葉を口にしたことにより、全てがいとも簡単に崩壊した。

なんで?好きな人ができた?自分で言うのもなんだが、私という決して完璧とは言えないがそれなりに可愛げのある彼女が居ながら?
なんだそれ?そんなことが許されるのか?
いや、きっと許されるんだろうな。
だからこうして彼は必死に頭を下げている。

「…わかった」
怒りと悲しみと諦めと、その他もろもろの感情が脳内でどろどろに混じり合ってスムージー状になり、震える声で彼の要求を呑む言葉を呟くと、彼は勢いよく顔を上げ期待に満ちた表情を浮かべた。
その瞬間、

(なんだこいつ)

間抜けにもほどがある表情を見て、私の中で何かがプツンと軽い音を立て、切れた。

ゴッ

鈍い音が鼓膜を振動させるのと同時に、私の右手に激痛が走る。
ここで初めて、私は彼の左頬を固く握りしめた右手で殴っていたということに気がついた。

「――とでも言うと思ったか馬鹿!!!!」

がらがらと大きな音を立て椅子から転げ落ちる彼を尻目に、私は机に置いていた鞄を持ち廊下へと飛び出す。
その際に角で誰かにぶつかった気もするが、今はいちいちそんなことを気にしている心の余裕などなかった。

このまま廊下を走り続けて、会社の外へ出て、公道に出て、そしてどこか遠くへ行ってしまいたい。
実家でもいいし、行ったことの無い国でもいい。
空を飛びたい。飛べたらどんなにいいだろう。
でもとりあえずは、

「死ね、糞野郎!!!!!」

私は無駄に長い会社の廊下を、心の底から湧き出た罵詈雑言を絶叫しながら走り抜けた。

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「……とまあ、昨晩そんなことが、あったのです」
「か、かわいそうに…」
「笑いを堪えながら同情の言葉をかけるのやめてもらえますかね、先輩?」
「だって…だって…ふふふふ…」
おなかいたい、と言いながら下腹を押さえ隣のデスクに突っ伏して笑う薄情な先輩に冷ややかな視線を飛ばしつつ、先刻売店で買ったエナジードリンクを一気に飲み干し、私は「もう恋なんてしない」と力強く呟いた。
ちゃんまだ若いんだからそんなこと言っちゃだめよ?これからよ?ね?」
相変わらずお腹は押さえたまま、顔だけを上げながら先輩が言う。
「所詮他人事ですよね」
「同情してるのよぉ?」
「同情するなら浮気をしないイケメンの彼氏をください」
憎しみを込めて噛みつくように言い放つ。
先輩はいいよな、結婚秒読みの素敵の一途な彼氏が居て。今の私とは正反対の世界に居る。
あー、会社に隕石でも落ちないかな。いや、会社に落ちてこられると困る。
周りに誰も居ないとき、偶然あの裏切り者の頭の上にピンポイントで落ちればいいのに。
うん、それがいい。

そんなことを延々と考えていると、誰かが私の左肩にそっと手を置く気配がした。
誰だ慣れ慣れしい。大方私の失恋話を嗅ぎつけて笑いに来たのだろう、誰だそんな無礼者は…と、気配がする方へ視線を向ける。

「…おはよう、さん」

私の氷のように冷たい視線の先では、部長が苦笑いを浮かべていた。
「お、おはようございます、部長」
額にうっすらと冷や汗をかきながら、私は即座に取り繕った笑みを浮かべる。
「今日も元気そうだね?」
「…あんまり元気じゃないけど元気です」
「よくわからないけど、元気ならよかった」
「ははは…えーと…あ、昨日言ってた資料できました、これ…」
デスクに散乱した書類の中から頼まれていた資料(思えばこれが昨日私が残業をする羽目になった原因だった。思い出したくもない!)を取り出し手渡そうとするが、部長は「違う」という風に手をひらひらと振る。
不審に思い眉を潜めると、部長は手を顎に添え、穏やかに言った。
「その前に、一つ伝言があってね」
「伝言?」
「ああ」
「誰からのですか?」
はて。入社2年目のお世辞にも仕事ができるとは言えない小娘に何かを伝えるため、わざわざ部長に伝言を頼むような人物は一体誰だろう。
伝言とやらの内容も気になる。
私、何か重大なミスをした?締め切り間違ってた?テキトーに片付けてしまった仕事の駄目出し?
思い返してみるが、心当たりはない。
考え込んでいると、咳払いをした後、部長は躊躇いがちに口を開く。
「私も事情がよくわからないんだが…」
「はい」
部長はぐるりと周りを見渡した後、腰をかがめ、私だけにしか聞こえないように小さな声で“伝言”を囁いた。

「社長が君に会いたがっている」
「しゃ?……は?」

その単語を聞いた瞬間、自分でも驚くほど素っ頓狂な声が喉の奥から出た。
私は近くに座る同僚や先輩たちから「なんだなんだ」と好奇の目で見られながら、(神様、私が何かしましたか?)と、頭の中で居るのか居ないのかわからない神に必死で、それはもう必死で縋るように呼びかける。