君を見つけてしまったから

#1


イワンが彼女と最初に“偶然”出会ったのは、シュテルンビルトの長い冬が終わる頃だった。

その日は夕方頃ウエストゴールドで起こった事件が収束し、イワンは所属する会社に少し顔を出してから帰路についた。会社の外に出るとすっかり暗くなっており、疲労感を倍増させる。1日の自分の働きに特段手ごたえを感じるでもなく、かといって空っぽと言えるほど虚無感を覚えているわけでもなく、良くも悪くもいつも通りな気分を携えてとぼとぼ歩く。しかしその途中で、会社近くの公園にある桜並木が満開だという話を昨日同僚のヒーローがしていたのをふと思い出し、進路を変えた。
コンクリートとレンガ造りの建物が競うようにして建つシュテルンビルトの中にも数多くの公園はあるが、東洋の文化を象徴する存在の花である桜の木がある公園はそう多くはない。昨年も同様の話を聞いたのだが、その時は気が付けば見頃と言われる時期は過ぎ去っており、イワンは悔しい思いをした。だから今年こそは忘れないうちに見ておこうと思い至ったのだ。自身のヒーローとしてのキャラクター性は今は関係なく、ただ単に、個人的な趣味としてオリエンタルな文化に触れたいという一心で。
最初にいつ誰にどこで聞いたかは忘れたが、オリエンタル系の人々の間には古来よりお花見という文化があるらしい。桜の花の下で親しい人たちで集まって食べたり飲んだり踊ったり、それはそれは楽しい物だと聞いている。また、明るい時間ではなく敢えて夜に桜を見るのを好む人々も居るのだという。イワンも実際にまだ夜の桜を見た事は無いが、きっと想像を絶するほどに幻想的な光景が見られるのだろう。こうしてイワンは大きな期待を抱きつつ、シュテルンメダイユサウスにある公園の桜並木に足を踏み入れたのだった。

話に聞いていた通り、満開の桜は見事なものだった。昼間は近くの会社に勤める人々の息抜きの場となっており、それなりに人が多い場所であると記憶しているが、この街の人々は夜に桜を見るという楽しみ方を知らないのであろう。犬の散歩をする人、ランニングをする人等数人とすれ違った以外はイワンを除いて誰も居ない。元々賑やかな場より静かな場の方を好むイワンにとってはまさに穴場中の穴場だと言えた。イワンは独特の雰囲気と待ち焦がれていた春の匂いを楽しみながら並木道を往く。そして丁度半ばあたりまで来ると、ベンチを見つけ、なんとなしに腰を下ろした。一際大きな桜の木の下にあるそこに座って頭上を見れば、桜の雨がはらはらと降ってきた。日本の人々はこの光景を、ワビサビだとかショギョウムジョウだとか言うのだろうか。日本の人ではなく、ただ勝手に彼らの文化を愛好するだけの自分のような者は、終ぞ知る事は無いのだろうが。イワンが憧れを抱く異国の文化に想いを馳せていた、その時だった。

かさり。

イワンが座るベンチの後ろ。大木の根本の辺りで乾いた音が鳴る。野良猫か小動物でも居るのだろうかと不審に思ったイワンがゆっくりと振り返ると、音がした辺りにひとつの人影を捉えた。木々の狭間を動く影と、ちらちらと踊る灯り。等間隔に立つ街灯だけでは全容を把握する事が出来ず、イワンは目を凝らす。すると、やがてその人影は先程より大きな音を何度か立てながら、イワンの目の前に姿を現した。

音の主は、オリエンタル系の顔立ちの若い女性だった。
片手に電話を持ち、履いている膝下丈のやわらかそうなスカートとヒールの高い靴はよく見るとところどころ土で汚れたり、泥が付着したりしている。綺麗な桜の下に立つには些かちぐはぐなその人物は、「無いなあ」と小さく呟くと、左手に持っていた懐中電灯代わりにしている電話を辺りに翳す。自分の足元、植え込み、桜の根本。そうして順番に照らしていく流れでベンチに座るイワンの存在を初めて認識したらしい彼女は「ぎゃっ」と短い悲鳴を上げた。
「あっ、あの……大丈夫、ですか?」
意図せずだが驚かせてしまったことに若干の申し訳なさを感じ、イワンは咄嗟に尋ねる。
女は暫く口をぱくぱくとさせていたが、イワンの視線を受けて、慌てて洋服に付いた土埃を払いながら答える。
「えっ、あ、はい。大丈夫です。…………いや、大丈夫じゃないです!」
最初に見せた驚くそぶりから一転し、急にスイッチが入ったように声を荒げる彼女。その豹変ぶりと理解しがたい返答にイワンが面食らっていると、彼女の後ろから先程彼女が立てていたのと同様の乾いた音を立てながら、「やっぱり無いですよね」と途方に暮れた声を発する人影がもうひとつ現れる。今にも泣きだしそうな情けない顔を向けるスーツ姿の男性はやっぱりところどころ汚れていて、イワンと彼女の間に立つと、深く重い溜息をついた。

イワンが最初に出会った人影、土埃だらけの女は公園近くの企業に勤めている会社員だった。
彼女は仕事を終え、レールエレベーターの乗り場への近道であるこの公園を突っ切ろうとしていた時に、桜の木の下で何かを探すように蹲る男性(先程情けない顔を向けたスーツ姿の彼)を見つけたという。ただならぬ雰囲気を察知し、黙って見過ごす事もできず彼女が声を掛けると、男性が恋人に贈ろうとしていた指輪を落としてしまったのだという話を聞き、そういうことならばと探すのを手伝っていたらしい。
「プロポーズのシミュレーションをしようとしていたんです。そうしたらうっかり手を滑らせてしまって」
相変わらず覇気のない声で男性は言った。
「シミュレーション、大事ですからね!」
イワンがふたりの行動の経緯を聞いている間、彼女がモバイルバッテリーに繋いでいた電話を手に取り再びライトを照らす。「もうちょっとだけ探してみましょう」と彼女が力強く言うと、男はそれとはまるで対照的に、今にも泣きだしそうな声で「もう諦めます」と唸るような声を上げた。
「諦めないでください!この辺で落としたのが確実なら絶対ある筈でしょ」
「それはそうですけど……。でもこれだけ探しても無いなら、きっと神様が『プロポーズはやめておけ』って言ってるんだと思います」
必死で励ます彼女と絶望の淵に立つ男性。イワンは暫くふたりの不毛な言葉のラリーを傍観していたが、気が付くと「あの、良ければ僕も手伝います」という言葉が口から飛び出していた。

「……えっ?」

高さは違うが同じ音の声が重なり、ふたり分の視線がイワンの元へと届く。やけに擽ったいそれを受け取りつつ、イワンはベンチから立ち上がって先程ふたりが出て来た植え込みの前まで行くと、「この辺りを探せばいいですか?」と振り返りながら尋ねた。

職業:市民を助けるヒーロー。とは言え、普段イワンが立つ現場では人命救助や大きな事故の処理等をするのが一般的だ。しかし現状、イワンは現場で活躍する事よりも、スポンサーの企業名をアピールすることに重きを置いている。その件に対して引け目のようなものを感じていないわけでは無いが。
そんなイワンが市民の落とし物を探すと申し出た理由は、ヒーローとして以前に人間として、『困っている人を見過ごせなかった』という事に尽きる。持って生まれたヒーロー性だとか価値観だとか正義感だとか、大げさな話ではないけれども、やはり腐ってもヒーロー、見切れるだけでも人を助けるヒーローであるならばここで行動しないわけにはいかないと思った。
男性から指輪の特徴と落としたであろう場所を聞き、地面を注意深く見てまわる。途中、また何人かの通行人が通りがかったが、皆桜ではなく地面に顔を近づけるようにして徘徊する3人の姿に奇妙な視線を送っていた。

どのくらいの時間が経ったかはわからない。あれから幾度となく「もうやめませんか」という男性の弱弱しい声を聞いたが、イワンと彼女はそのたびに「もう少しだけ」と言い聞かせた。そしてふたりと同様にイワンの靴や洋服も土埃でコーティングされた頃、イワンは遂に目的の物を見つけた。
「ありました」と伝えると、男性は泣きながらイワンの手を取り、長い長い感謝を述べた。痛いほど力を込めて握られた手の感触に、イワンは仕事でも、今までの人生に於いても、ここまで感謝をされた事はなかった気がすると、嬉しいような哀しいような気持ちを抱くのだった。男性は満足そうな顔でふたりの様子を眺めていた彼女にも何度もお礼を言っていたが、「お礼はいいからまた指輪を無くす前に彼女さんの所に行ってあげてください」と冗談ぽく言われると、イワンと彼女に今一度深々と頭を下げて足早に去って行った。文字通りの春の嵐のような時間が去り、辺りはまた静けさを取り戻した。

「ごめんね、夜桜見物の邪魔をしちゃって」
男性の背中が見えなくなった頃、緩やかな風に踊らされる花びらに包まれながら、彼女は笑った。
「いいえ、別に、」とイワンが答えると、彼女はいたずらに手を伸ばして花びらを捕まえてみせる。
手のひらに乗せた花びらを静かに見つめる彼女と、それを取り巻く空気。居心地がいいような、少しだけ気まずいような妙な気分になり、「……綺麗ですよね、桜」とイワンは当たり障りのないコメントをした。見ず知らずの人。小一時間ほど一緒に探し物をしただけの関係。話題があるはずもなく、とりあえず目に見える物へのコメントをするのが正解だと思った。しかし、何の気なしに発したイワンの言葉。それに対する彼女の返しに耳を疑うことになるとは知る由も無かった。

「……うん。でも、私は嫌いだなー」
「えっ?」

満開の桜の下、満開の笑顔。桜の花びらが散るように、控えめにぽつりと零された彼女の言葉。その中で、嫌い、という単語だけがイワンの中で強調され、頭の中で大きく鳴り響く。
そうだね、とか、春だね、とか、彼女も自分と同様に当たり障りのないそんな言葉を返すのだとイワンは勝手に思っていた。しかし、実際はそれとは大きく異なっていた。
イワンの中では予想外すぎる返答に言葉を濁していると、彼女は言葉と裏腹に、依然として楽し気に笑いながら続ける。

「桜は寂しくなっちゃうから、嫌い!」

言うと、彼女は弄んでいた花びらを地面に散らす。
何故だろうか。その言葉はイワンの心の奥底に眠る何かを呼び覚ますような響きがしたが、今はまだイワンも、彼女も、桜の木さえも、その真相を知らない。