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#1

電子ケトルで沸かしたような恋だった。

“だった”と過去にしてしまうのは間違っているので訂正する。電子ケトルで沸かしたような恋をしている。お湯はとっくの昔に沸いているのに冷める様子は無く、こぽこぽと泡の弾ける音が僕の脳裏でうるさく鳴り響き続けている。
普通、と恋愛に関する一般論を言えるほどの経験がある訳ではないので、同僚の話や偶々深夜のテレビで見た恋愛映画なんかを参考にさせてもらうとすると、恋という物はコンロにかけてじわりじわりと温度が上がっていくような類の物もあれば、それよりもっとずっと早く、一瞬のうちに燃え盛るような物もある。どちらが良いかとは一概に言えないが。
沸点まで達した想いが冷めるスピードもまちまちだ。急激に冷めていく物、そのまま冷めずに沸き続ける物。
僕の場合はどちらも後者であった。沸点に入ったまま最高温度で保温状態にされているやつ。
そして長らく保温状態をキープしていたこの想いは今、2か月前に長らく友達だった“彼女”と晴れて恋人同士になった今も変わらない。
しかし、それは『おアツいね』という冷やかしの一言で済まされるような事では決して無い。
理由は簡単である。

“保温状態なのは自分だけかもしれない”からだ。

真相を確かめる術は、今の所無い。

*

『――予想最高気温は31℃、今日も厳しい暑さです。水分補給をお忘れなく!』
近くの街頭モニターから、ハキハキとキャスターが今日の天気を伝える声がする。
荒い呼吸を整えながら木陰のベンチに座る。ペットボトルの水を飲む際に見えた青空を見て、成る程確かに今日も暑くなりそうだと思った。
7月半ばとはいえ、まだ日の出から間もない早朝は地面の温度も高くなく、走りやすい。
体を不用意に冷やす心配も少ないので、ある意味快適さすら感じる。
3日が3週間、3週間が3か月、3か月がそろそろ3年になろうとしている日課のランニングも、今のコースを固定にしてから随分経つ。その際、休憩にこのベンチを使うのも。
それはつまり、彼女と僕との出会いとほぼ同じ年月を意味しているのだけれど。

「あっ、居た」
天気予報から星座占いに切り替わったモニターをそのままぼんやり見据えていると、突然背後から今まさに顔を浮かべていた人の声がして、僕は口に含んでいた水を咽そうになった。
それに気付いているのかいないのか、仕事の制服姿のちゃんは「おっはよ~イワン。今日も早いね」といつもと変わらぬ明るい声で言いながら、これから地上の気温を31℃まで上げるつもりの太陽くらい眩しい顔で笑うのだった。

彼女――ちゃんは、ゴールドステージのオフィス街外れにある交番に駐在している警察官だ。
数年前、ひょんなことから出会って、僕はいわゆる電子ケトルの恋をして、僕にもちゃんにも色んなことがあって、先日漸く温め続けてきた想いを告げる事が出来た。
……と言っても、情けないことに、先にそれを告げたのはちゃんの方だったのだが。
その時の事を思い出すと今も心臓をぎゅっと鷲掴みにされたような感覚に陥る。
というか、その時に限らず僕は『結果オーライ』みたいな事ばかりしてきている。そんな情けない気持ちになるのだ。
今更反省会を開いたところでどうにもなりはしないのは解っているが。

「……おはよう。仕事帰り?」
人知れず少しだけ苦い気持ちを抱えながら、僕は隣に腰掛け欠伸をするちゃんに尋ねる。この時間にこの付近を歩いているということは恐らく夜勤だったのだろう。
些細な情報からそんな推測をするのもすっかり容易くなった。
彼女はごそごそとポケットを漁り、鮮やかなピンク色のチューインガムを2枚取り出すと、1枚は咥え、もう1枚は僕の鼻先に差し出す。
彼女がいつも『眠気覚まし』と言って食べているガム。
そのパッケージに描かれるちいさな林檎に似た赤い果実が何という名前なのか、そういえば未だに僕は知らない。
容易い事も増えたが、依然不確定や未確認な要素も多いのである。

「いやー、そこの角で喧嘩してるカップルがいるって通報があってさ。話聞き終わって今からまた交番に戻るとこ。ただの痴話げんかだったんだけどね」
「……それは朝からご苦労様」

口の中に人工的な甘さが広がり、鼻に抜ける。
以前『スースーするのは苦手なんだよね。子供っぽい味のやつが好きなんだ』と照れくさそうに語ってくれた時の笑顔を思い出し、苦い胸の奥に少しの熱が加わった。
「まあ夜勤だと夜も朝もないからね。数時間後には泥のように寝てやるからさ」
「ふふ」
「イワンは?これから仕事?」
「ううん。今日は特に無いからトレーニングに行こうかなって考えてたとこ」
「……そっかそっか。頑張ってね。じゃあ私そろそろ行くね。サボってんのがバレちゃう」
「またね」顔の横で手を振り、速足で去って行くちゃんの背中に「うん、また」と返す。
そしてそれもすっかり見えなくなった頃、薄くなったガムの味を噛み締めながら僕はこう思うのだ。

(「また」ね……)

その言葉が表すのは明日なのか来週なのか来月なのか。
世の中のカップルがどのくらいの頻度で約束をし、何処かへ出かけているのか僕にはわからない。
一般的である必要は無いと思ってはいるものの、自分達にとってはもう少し何かしらの進展が必要なのかもしれないとは常々思っている。そして焦っている。
少なくとも、こうして今日みたいな偶然を探しているだけの関係からは脱却したいのだが、その術が解らないのだ。
ふと見上げた街頭モニターには今朝のトピックスが映し出されている。
気が付かぬ間に星座占いが終わってしまっていた事にここで初めて気付き、また少しだけ気分が沈んでいく。

*

何に対して幸せを感じるかは人それぞれだし、何に対して不幸を感じるかも人それぞれだ。
些細な出来事にも幸せを感じる事が出来れば人生は幸せだらけだろうし、逆に些細な出来事を不幸だと捉え続けていると人生は不幸だらけになる。
じゃあもし、仮に幸せが有限の物質だったとしたらどうだろう。
地球上に存在する幸せにはエネルギー資源のように限りがあって、世界中の人々がそれらをシェアして生きているとしたら。
きっと何にでも幸せを感じる事が出来る人に食いつぶされてしまうのだろう。
何もかも悪い方向に考えてしまいがちな僕らのような人が不幸に囚われているあいだに、僕らが余剰を生み出した幸せに飛びついていくのだ。

「いやその理屈はおかしーし、大体幸せが有限の物質なワケがないし。バッカじゃないの?」
「ですよね」
という話を休憩の暇潰しがてらその場に居合わせたブルーローズさんにすると、予想通りの反応が返ってきたので逆に安堵した。 ペットボトルを持つ手に力が入っている。そう、彼女は怒っている。ものすごく怒って、そして呆れていた。
「折紙さぁ、大体何でそんな辛気臭い話すんの?彼女と上手くいってないの?」
「なに!?まだ2か月でしょ!?」
「フフフファイヤーさん、顔、顔が近いです」
そうです、2か月ですっ!と強引に話に入ってきたファイヤーエンブレムさんの気迫に満ちた顔を避けながら答える。
彼女もまた怒っている。そして多分、呆れている。

ふたり(と偶にドラゴンキッドさん)は以前から僕の恋に対して時にさりげなく、時に強引に応援してくれている。以前というのは2か月前よりもっとずっとずっと前だ。
元々ファイヤーさんにどうしようもない相談をした後、どこから漏れたのか明らかすぎる情報をブルーローズさんが知り、ドラゴンキッドさんが知り……という具合に仲間が加わり、今に至る。
正直ひとりでは持て余していた感情だったので有難い気持ちもあったが、彼女たちのアドバイスは的確すぎてグサグサと刺さるものばかりだった。
しかしそれでも信頼はしている。共にこの街を守る同僚だからというのもあるし、それぞれが僕には持っていない考えを持っているし、それは僕よりも遥かにちゃんの心に近い物だと解っているからだ。
だからこうして今日もどうしようもない感情をひたすら吐露する。

「えっ、一緒に出掛けたりとかは?」
「します。……誘われたら」
「アンタが誘うんじゃなくて?」
「その、まだ勇気がなくて」
取り調べを受ける犯人はきっとこんな気持ちなのだろう。
両隣に座るふたりから次から次へと質問が投げかけられ、僕はただ自分の膝を見つめながら答える他無かった。
「どこに出掛けるの?」
「公園でその辺で買ったごはん食べたりとか、街をふらふらしたりとか」
「うーん、高校生のデートね」
「失礼な、現役高校生だってもっとムードのあるデートするわよ」
「じゃあ小学生」
「…………」
「あっ、ゴメン。落ち込んだ?」
「いえ……あの……はい……」
ダイジョウブです、と返すが、当然何一つ大丈夫な要素は無かった。
出来る事なら僕だって――と食ってかかろうとするが、それをした所で彼女らが言うような事が何もできていない現状が覆ることはまずない。
色んな所に誘ってみたいけど、楽しみなのは自分だけだったらどうしよう。
興味のない場所だったらどうしよう。
その日は違う友達と出掛ける予定が、って言われたら何て返せばいいんだろう。
好きなのは、僕だけだったらどうしよう。
そんな考え達が頭の中を駆け巡り、がんじがらめになって、僕を縛る。
片思いをしていた頃と相違ないどころか、酷くなっている気さえする。
あの頃の方が今よりずっと楽だった。
そんな風に感じるのは、きっと怖いからだろう。
ちゃんが怖いのではない。
彼女が僕を『好き』と言う熱量と、僕の彼女への『好き』という熱量が釣り合う物かどうかわからなくて、怖いのだ。
自分の事が好きかどうかわからない子に嫌われるよりも、自分の事を好きだと言ってくれる子に嫌われる方が何千倍、何万倍も怖い。
自分が一生懸命見出した「幸せ」と感じている事が、彼女にとっての「不幸せ」だったらどうしよう。
大好きな子に「何か違う」と言われてしまうのが、とても耐えきれない。
「……ま、何かわからなくはないけどね。好きな人の期待を裏切りたくない気持ち」
顎に手を添えウンウンと頷くファイヤーさんの言葉に現実に引き戻される。
「好きな人の理想の人で在りたいんでしょ。そこから外れてしまいたくない」
「理想の人がどんな人かは解らないんですが、そうですね。僕自身も彼女も傷つかせたくないんだと思います。すごく勝手ですけど」
「あら、それは別に良いのよ。本来自分勝手にするものよ、恋愛ってのは」
アタシなんかね、と自分の話を始めようとしたところをブルーローズさんに手で静止され、ファイヤーさんは少し拗ねたように唇を尖らせた。
「言わんとすることはわかったけどさー、じゃあどうすりゃいいのよ折紙は」
ファイヤーさんに概ね同意するようだが、やはり何か納得がいかない様子で腕を組み、ベンチの背もたれに沈んでいく。
そんなブルーローズさんを横目で捉えた瞬間、「とりあえずデートに誘えば良いんじゃないかな!」と背後から元気な声がした。
「ごめんね、盗み聞きしちゃって。でもボク、良い物持ってきたよ」
「えっ」
ひっそり話を聞いていたというドラゴンキッドさんは穏やかに笑いながら、何かチラシのようなものを僕たち3人の前に突き出した。
「来る途中に配ってたんだよねー」と楽し気に言う彼女が持つチラシに書いてある文面を、3人の目が同時に追う。
暫しの沈黙の後、「あ、いいかも」と最初に呟いたのはブルーローズさんで、「うん。良いんじゃない?」と次に呟いたのはファイヤーさんだった。
「何もしないで嫌われると言い訳できないけど、自分が良かれと思ってしてしまった事で嫌われた場合はきちんと話をすれば良いだけよね」
僕に対してではなく、確固たる意志を己に示すかのようにぎゅっと拳を握りしめてファイヤーさんは力強く言う。
「そう!さすがファイヤーさん。ボクもそれが言いたかったの」
「うん、当たって砕けろよ、折紙!がんばって!」
いや砕けたら困っちゃうって!確かに!うふふ!
昼前のトレーニングルームに3人分の賑やかな声が響き、「なんだなんだ」と他の同僚達が集まってくる。
(自分勝手に、か――)
何倍にも騒がしくなった空間で今一度言葉を反芻する。
かくして“作戦会議”は終わり、実行に移されるのだった。が、

「自分勝手って、どうすれば良いんだ……?」

外を照り付ける太陽くらい、大きな疑問だけが僕の頭の中に残るのだった。