人は生きている限り誰かと関わり続けなければならない。
初めは両親、家族。それから近所の人。学校に通い始めれば先生や友達。恋人だってできるかもしれない。働き始めれば同僚、上司、その他多数。
それからお店の人やバスや電車の運転手、挙げ始めたらキリが無い。
兎に角沢山の人々と関わって生きていく必要がある。
では沢山の人間と上手く関わる方法とは何だろう。
それは、適度に我慢をする事だと僕は思う。
人の数だけ意見があり、ふたり以上の人間がひとつの物事に対して全く同じ意見を持ち合わせているなんていう奇跡は起こり得ないのが普通だと捉えるのが妥当だろう。
ならば時には自分の意見を押し込めて、他者の意見を受け入れる。
話を聞いてみると存外納得できる内容かもしれないし。
そういう風に生きてきた僕にとって、『自分勝手にする』というファイヤーさんからのアドバイスは寝耳に水も良い所だった。
「でさあ、結局そのまま寝ちゃって。洗濯物も出来なかったなあ」
「…………」
「イワン?」
「……あ、ごめん。ぼーっとしてた」
「大丈夫?疲れてる?切ろうか?」
電話の向こうでちゃんが心配そうな声で尋ねるのを聞き、慌てて謝罪をする。
夜勤明けで疲れているであろう夕方に、こうして通話をしてくれているのに何故他所事を考えていたのか。いや、厳密に言うと全くの他所事ではないが。というか他所事も何も本質なのだが。
そして『今なら迷惑じゃないかな?まだ寝てるかな?そろそろ起きたかな?でも起きてからもきっとやることはあるだろうし?』等と悩んでいるうちに、結局電話を掛けて来たのはちゃんの方だった。
僕の“自分勝手になる作戦”はこうして失敗した。次みんなに会った時何て報告すればいいんだろう。
「ところでさ、次の日曜空いてない?」
「へっ?」
しまった。なんて間の抜けた声だ。これではまた上の空だったと思われてしまうではないか。頭の中はこんなにもちゃんのことでいっぱいなのに。
内心焦りながら、「日曜」と繰り返す。先にちゃんの口から出て来たその日は、昼間にトレーニングセンターで見せてもらったチラシに書いてあった日付と合致する。
その事に気付いた瞬間、「あ」と稲光のように短い声が漏れた。
「日曜、何か予定あった?」
「あ、いや……別に」
ない、と言えば嘘になるけど、僕の場合の予定はちゃんに承諾されていない『未定』状態だからこの場合は嘘にはならないのか。
でも、誘おうとしていたのだから予定は予定なのか。何と答えるのが正解なのだろう。
愚かな僕はまたしてもどうでもいい事をぐるぐると考えるのに手いっぱいで、電話の向こうの彼女の声に陰りが見え始めた事に気付かないのだった。
「……あのね、イワン」
その瞬間、僕は漸く違和感を確信する。
それは、明らかに今までとは違っていた。
覚えている限り、彼女と出会ってから今まで聞いた、どんな声とも。
しかし、僕がそんな風に思った時にはもう遅かった。
「会いたくないなら会いたくないってはっきり断ってくれても良いんだよ」
「え?」
会いたくない?
そんな事、当然あるはずがない。あってはならない。
ちゃんと一緒に居る時間は僕にとって何事にも代え難い、尊い時間であり、大好きな時間であり、仕事と同じくらい最優先すべき事項だった。
でもどうして彼女はそんな事を言うんだろう。それが僕には解らなくて、うろたえるしか道が無かった。
だが、霧の向こうに霞む真相の中、ひとつだけ明確な事もあった。彼女に今『そんな事』を言わせてしまったのは他でも無い、僕自身なのだ。
「いや……あの、困らせたかったわけじゃないの、ごめん。今の忘れて?」
「なんで、」
そんなこと言うの。苦しそうな声を出すの。泣きそうなの。謝るの。
続けるべき言葉はいくらでもあったが、喉の奥に引っ掛かって出てこない。
聞きたい、知りたい。でも自分なんかが聞いて良い事なんだろうか。聞いたところで教えてくれるのだろうか。僕に、解決できる事なんだろうか。
この感覚には痛いほど覚えがあった。
嘗て僕の事を誘ってくれた親友の窮地を救う事が出来なかった時。
あの時も自分に何が出来るのだろうと逡巡している間にすべてが終わった。
僕の本質はあの時から何も変わっていない。
長い長い信号待ちをしているみたいに、その場に立ち止まったままなのだ。
もう切るね、おやすみ。
短すぎるちゃんの挨拶のあと、通話終了を知らせる電子音が虚しく響く。
結局何も言えなかった。言えない所か、言わせてはいけないことまで言わせてしまった気がする。
後悔に胸が張り裂けそうになりながらそのまま電話を布団めがけて投げてみた。
綺麗に弧を描き、軽くバウンドした後ゴトリと鈍い音を立てて床落ちたのを見て慌てて拾い上げる。傷は無い。
このくらい簡単に、世界も彼女も救える自分だったら良いのに。
*
「……で、アンタは何で居るのかしら?」
「スミマセン」
「スミマセンで済んだらヒーローは必要無いでしょうがっ」
アンタ今日何曜日だと思ってんの!?日曜日よニチヨウビ!?まさか日付間違えたなんて言わないでしょうね!?なーに呑気にトレーニングしてんのよっ!
僕の首根っこに掴みかからんとする勢いで詰め寄るファイヤーさんを仰け反りながら回避しつつ、トレーニングセンターで流れているモニターに目を向ける。
15時3分。昼過ぎとはいえ、外の日差しはまだまだ厳しそうだった。
あの電話の後からちゃんとは連絡を取っていない。
数日、数週間連絡を取らない事は友人の頃は当然、今の関係になってからもあった。が、今回は少し事情が違うというのはさすがの僕にもわかっていた。
でも、どうするべきなのかまで理解できているわけではない。
故に、僕が取った行動は“静観”すること。触らぬ神に祟りなし。いや、祟りが起きた後なのかもしれないが、それはそれとして。
「……つまり、誘えなかったのね」
「本当にごめんなさい。色々相談に乗ってもらったのに」
「別にいいわよ。人生上手くいく事もあれば足止め食らう事もあるし。ドンマイ折紙。次頑張りなさい、次」
「次……か……」
「あら何、まだ何か言いたい事あるワケ?この際だから全部吐いちゃいなさい」
促されるがまま、僕は電話での一件を報告する。
隠しておきたい事は少し脚色を入れて誤魔化しながらも、大体、有体に。
吃驚するほど彼女に従順だったのは、出口の見えぬ悩みに疲弊していたからだ。
隣に座るファイヤーさんは眉間に深く皺を刻みながら聞いていたが、僕が話し終えると足を組み替え、細く長い溜息を吐いた。
そして、
「確認よ。アンタは彼女の事が好きなのね?」
詰め寄る様にして僕に聞いた。
その目は獲物を前にした鷹のようで、僕は彼女にわからないよう数ミリ後ずさりをした。
「え……あ、ハイ」
「何なのよその中途半端な返事は!」
「ごめんなさい!好きです!」
「よろしい」
自分の納得のいく答えを得られた事に満足したのか、「ふん」と鼻を鳴らしながら得意気に笑い、ファイヤーさんは続けた。
「じゃあアンタは今すぐ帰って着替える。勿論シャワーを浴びる」
「え?」
「そして彼女の家の前まで行ったら……あとはわかるわね?」
「……それはつまり、今から誘えって事ですか?」
能力を使っているのかと疑いたくなるほどの熱量を持ったファイヤーさんに怯えながら尋ねると、彼女は勢いよく立ち上がって
「そうに決まってるでしょ」
と満面の笑みで宣うのだった。
「あの、僕の話聞いてました?僕一回断られてるんですけど……」
「は?声を掛けて来たけど断ったのは彼女の方で、アンタは結局まだ一度も誘ってないでしょうが。だから断られてもない」
「た、確かに」
改めて言葉にされるのはなかなか屈辱的なことだったが、事実には間違いなかった。
日曜空いてる?と先に確認したのはちゃんだったし、忘れてと言って電話を切ったのもちゃんだ。断ってもいいんだよと選択肢を提示してきたのも。
すっかり得意になったファイヤーさんは続ける。
「相手の気持ちに寄り添おうとするのは素敵な事よ。でもね、相手がいつもネガティブな意見ばかり持ってるという前提で向き合おうとするのは失礼にあたるってもんよ」
「はあ……」
「良いからとりあえず行きなさい!走る!考えたいことがあるなら考えながら走りなさい!彼女は待ってる!」
秋の楓の葉のような手形が付きそうなほど強く背中を叩かれ、促されるがまま僕は走り出す。
更衣室の前でスカイハイさんに「精が出るね折紙くん。これからランニングかい?」と爽やかに声を掛けられ「違うけど兎に角走ります」と答える。
すれ違いざまに見た、頭の上に疑問符を浮かべ立ち尽くす彼の姿が少し面白くて、強張っていた表情も心もいくらか晴れ間が見えて来たような気がした。
*
少しだけ薄暗くなり始めたブロンズステージの住宅街をこうして歩いていると、初めてここに来た日の事を思い出す。
あの日も今日のように暑い日で、晴れていて、でも時間はもう少し遅かった。
心の中にしまってあるちゃんとの大切な思い出のひとつを丁寧に扱いつつ、目的地のアパートを目指す。
地図が無くとも辿り着けるほど頭の中に焼き付いている場所だが、実際にこうして訪れるのはちゃんと花火をしたあの日以来だった。
(ここだ)
見覚えのある茶色いレンガ造りの建物。その前で足を止める。
脇にある細い路地と、その先に今もあるであろう彼女の愛車が眠っているガレージも遠目で見る限り変わっていない。
あの時は確か、ちゃんはまだ僕の仕事の事も知らなくて、でも気付いてほしくて、今とはまた違った種類の悩みを抱えていたっけ。
その時線香花火に願った事は共に過ごすうちに叶ったけど、どうしてだろう。関係も進展し、共有する秘密も増えたはずの今の方が心の距離を感じてしまう。
建物の入り口に立ち、ポケットから電話を取り出す。
アドバイス通りちゃんとシャワーを浴びたのに、走ったせいでまた少し汗ばんでしまった手のひらをぐっと握りしめながら、数日前に掛かってきた番号にリダイヤルする。
コール音を聞きながら『来たものの、もし家に居なかったらどうするのか』『電話を無視されたらどうするのか』という最悪のパターンが脳裏をよぎったが、今は気づかない振りをする他なかった。
僕に残された最後の道はこれだったから。
「……もしもし?イワン?」
「ちゃん、今大丈夫?」
数度のコール音の後出てくれた彼女の声に、内心膝から崩れ落ちたくなりそうなほど安心するのを堪える。
神様はまだ僕を見捨てないでいてくれたようだ。情けないが、少し泣きそうだった。
「大丈夫だよ、家に居るし。ってか珍しいね、イワンから掛けてくれるなんて。ちょっと吃驚しちゃった」
耳元で心地の良い笑い声が鳴る。
それを聞いて、ああ、やっぱり、好きだなあなんてことを考えてしまったのだが、今は関係ない……いや、あるけど、それが大前提なので今は置いておくとする。
「あのね、ちゃん。今実は下に居て……」
「下?」
「うん。ちゃんの家の、下」
「…………………………………………はい?」
一瞬、時が止まった。
と思ったら、建物の3階の窓がガタタタッという音と共に威勢よく開けられ、中からちゃんがひょっこりと顔を出す。
右手に持った電話を耳に押し当てたまま、左手を「やあ」と上げると、僕の姿を捉えたちゃんはほんのりと顔を赤らめながら、電話を通さず僕に直接「……3分、いや、5分だけ待ってて」と言い残し、部屋の中に消えていった。
通話が強制終了された電話から鳴る電子音に、開け放たれたままのドアから微かに漏れ出るバタバタとした音が重なり、奇妙なハーモニーを奏でた。
何かが落ちて割れる音と、彼女の短い悲鳴を聞いた瞬間、僕は想像以上に大変な事をしてしまったのかもしれないと理解した。
*
ちゃんが僕を下に迎えにきてくれたのは電話が切られて10分近く経った頃だった。
「散らかってるけど……上がって」
「お邪魔します」
促されるがまま、部屋に足を踏み入れる。
決して広くは無いワンルームの間取りだったが、いつも食べているガムに似た甘い匂い、玄関に飾られたドライフラワー、壁に貼ってあるチラシ、ブルーを基調としたクッションカバー等、随所随所にちゃんらしさを感じて嬉しくなる。
キッチンに置いてあるガラスの破片を見て「ごめんね急に」と謝ると、「あっ、聞こえてた?」と頬を微かに染めた。
「ホントびっくりしたよ。電話くれた上にまさか家に来るなんて。どういう風の吹き回し?」
僕がソファで待機していると、冷蔵庫からジュースの瓶を2本取り出し、ローテーブルに置きながらちゃんは言った。
瓶の表面を汗のように伝っていく水滴に視線を送り、僕はゆっくりと口を開く。
「あの事、聞きたくて」
「あの事?」
「こないだ電話くれた時の事」
言うと、ちゃんは「あー」と少し気まずそうな声を漏らし、僕の隣でブルーのクッションと一緒に膝を抱える。
その動きは何だか硬い殻に閉じこもる生き物を連想させたけれど、ちゃんは少しの間をおいてゆっくりと話し始めた。
「あのね、私、ちょっと怖くなっちゃって」
「怖い?」
小さくなる彼女に視線を向けるが、それが交わる事はない。
背中を丸め、クッションに半ば顔を埋めるようにして続ける。
まるで、何か痛みに必死に耐えているかのようにも映り、心が痛む。
「うん。イワンの事好きなの、実は私だけなのかもってさ」
その瞬間、僕の頭には鈍器で殴られたような衝撃が走った。
今、何て言った?
『イワンの事好きなの、実は私だけなのかもって』?
何故?
どうして?
そんなことはない、僕はこんなにも君の事が好きで、悩んでいて、苦しいのに!
混乱する。動揺する。呼吸がおかしくなる。
しかし次々に頭に浮かんでは消えていく言葉たちを捕まえて上手く伝えられる自信が無く、大パニック状態の僕をそのままに、ちゃんは淡々と言葉を紡ぐ。
「私が『出掛けよ』って誘ったらいつも『いいよ』って言ってくれるし、電話にも必ず出てくれるじゃん。仕事の時だと後でちゃんと折り返してくれるし」
「……」
「でもね、こないだふと思ったんだよね。ほんとに私と一緒に居たいのかなって。もっとやりたい事他にあるのかもしれないし……トレーニングとかさ。私ってばそれを考えずに誘ったり電話したりして、イワンの時間を潰してるだけだったらどうしよう!ってね。すごく嫌な女じゃん。だから言ってみたの。『会いたくないなら断って』って。でも言った後すぐ苦しくなっちゃった。だって断って欲しいなんてこれっぼっちも思って無いの!ずっと一緒に居たいんだもん」
気が付くと、僕の右手はちゃんの左手を包んでいた。
冬の終わり、明け方のダイナーで彼女の小指を包んだ時と同じ。理由はとても簡単なものだ。
好きで好きで、愛おしくて堪らなくて、そのせいで胸が痛くて、呼吸も上手くできなくて、でも何て言って良いのかわからなくて。
今はただ触れていたいと思った。それだけだった。
「それは、僕も同じだよ」
「え?」
「僕も同じ。ちゃんとずっと一緒に居たい」
普段の僕からは考えられない程、まっすぐで鋭い言葉だった。
少し必死過ぎただろうか。引かれたかもしれない。けど、今は不思議とそれでいいと思えた。
何も言わないで嫌われるよりも、ちゃんに自分の気持ちが伝わらないままおしまいになる方が嫌だと思った。多少かっこ悪くても、良い。
ぽつりぽつり、僕が降り出したばかりの雨のように自分の抱えて来た想いを告げるのを、ちゃんは黙って、時々驚いたり小さく笑ったりしながら聞いてくれた。
「僕のことなんて、どうでもいいと思ってると思ってた」
そうして全部を語り終えた時、最後にそう告げると、ちゃんは繋いだままの手をぎゅっと握り返して言った。
「どうでもいいなんて、一度も考えた事ないよ」
「ほんとに?」
「ほんと」
レースのカーテンの向こう。先程よりも更に傾き、空をほのかに染め始めた太陽がちらりと見える。
少しずつ、少しずつ空を赤く染めていく。瞬間的にではなく、時間をかけてゆっくりと。
そんな風に膨らんでいく想いもまた、美しいと今は思える。
「私達、ほんとにおたがいさまだね?」
心なしか楽しそうに、ちゃんが笑った。