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後日譚

「そう言えばさあー、どうだったのこないだの日曜は」

ベンチで休む僕の隣に座りながら、ブルーローズさんが聞く。
僕がトレーニングセンターに来たのが約1時間前。その時からずっと、視線を感じていた。
理由の予想はついていたが、声を掛けられた事で確信に変わる。
先日のデートの一部始終を聞きたくて仕方がないのだろう。 相談に乗って貰った手前、包み隠さず詳細を伝えるべきかと一瞬思ったが、僕は喉まで出かかった言葉を水と一緒に飲み込んだ。 そして、
「おかげさまで、とても楽しかったです」
と、一言だけ伝える。
それは何の添加物も無い、心からのシンプルな言葉だった。 ふと、もうひとつの視線を感じていた壁際に目をやる。ファイヤーさんは僕と視線が合うと目を伏せて、何やら満足げに「うん」と頷いていた。
「……?そう、それはよかったわね」
「はい。ありがとうございました」
腑に落ちたような落ち切っていないような。絶妙すぎる表情を浮かべるブルーローズさんに会釈をし、僕は立ち上がった。
逃げたと思われたかな。でもいいや。
彼女との思い出は誰かに自慢したり語ったりしないで、ひとり占めしておきたいから。

日暮れも近く、今日はもう仕事も無い。
朝はバタバタしていて走れなかったから、帰りに少しだけ走っていくのも良いかなと思いながらロッカールームに向かう。
そしてロッカーに入れていた電話を取ると、一件の音声メッセージが入っていた。
手早く着替えを済ませ、差出人の名前を指でなぞり、再生させる。
メッセージが再生されるまでほんの数秒。でも、その数秒間がとてももどかしく、それでいて泣きたくなるほどに幸せだった。

『もしもし?イワン?今仕事中かな?だったらゴメンね。もしこの後暇だったら交番寄ってよ。良い物貰ったの。おすそ分け。あー……イワンが好きかどうかはわかんないけど。まあいいや。じゃあねーお疲れ』

ブチっ。
お預かりしたメッセージは以上です。
無機質な音声を聞きながら、僕はお腹の底から湧きあがった笑みを零す。
そして『今から行くよ』と簡易的なメッセージを送信し、ロッカールームを足早に去った。
これから待っているであろう、この上なく幸せな時間に期待をしながら。

*

「……で。これは、何?」
いつもの交番。いつものデスク。崩れんばかりに籠に盛られた見知らぬ赤い果実。
その向こうで、先程メッセージをくれたちゃんは書類を作りながら楽しそうに笑った。
「こないだ荷物が崩れてるのを助けてあげた果物屋さんがさ、お礼にくれたの。こんなに沢山」
得意になって、胸を張るちゃん。
ご機嫌なのは大いに結構なのだが、僕にとってはツッコミどころが多すぎた。
「いや、この果物の種類は何?」
「イワンがいつも食べてるやつだよー」
「……サクランボ?」
「違う違う。まー似てるけどね」
ふふふ、と含んだように笑い、ちゃんはポケットを漁る。 見覚えのあるような、無いような。
艶やかな赤い果実に恐る恐る鼻を近づけると、清涼感の溢れる香りがした。
ああ、思い出した。これはちゃんの部屋の匂いに似ているのだ。
「正解は……じゃーん、これでした」
セルフ効果音付きで差し出したのは、今度こそ確かに見覚えのあるパッケージ。間違いようがない。彼女がいつも食べているガムだった。
いつものように差し出された何の変哲もないガムを眺めながら、僕は首を傾げる。
「あの……これさ、前から思ってたけど、何の味なの?」
何度見てもパッケージに描かれているのは謎の赤い果物だけで、それが本来どのくらいの大きさなのか、何という名前なのかも読み取る事が出来ない。
平べったいガムをパッケージのまま指先でくるくると弄んでいると、ちゃんは驚いた様子で言った。
「え、知らずに食べてたわけ?」
「だってちゃん教えてくれなかったし」
「だって聞かれなかったし。知ってるんだと思ってたよ」
やれやれ、と肩を大袈裟に竦めながら、彼女は至極あっさりと答えを口にした。
僕が長い間気になりつつも、行動力の欠如によりうやむやにしていた答えを。
「これね、アセロラだよ」
「へえ……?これが……?そうなんだ?」
名前は聞いたことがある。健康に良いんだっけ。いや、殆どの果物がそうか。それに、昔そんな名前のドリンクを差し入れで貰った事があったような気もする。しかし、名前と物体とが一致した状態で対面するのは初めてだった。
ほう、君がアセロラか。ちゃんのお気に入りは君だったのか。
そんな気持ちでまじまじと観察していると、僕の行動がツボに入ったらしいちゃんが声を上げて笑っていた。
「名前は知ってても実物は実際に見たことないものってあるよね。と言う事で物は試しにおひとつどうぞ。」
「アセロラってこんな小さいんだ」
「かわいいよね」
「うん、かわいい」
勧められるがまま、一粒つまみ、蛍光灯に翳してみる。
宝石さながらの輝きを放つそれは、僕の指の間で誇らしげにしていた。
そしてそのまま口に入れる。
甘さと酸っぱさがほぼ同時に押し寄せて、脳に響いた。
悪くはない。寧ろ、良い。
何て言うか、少しだけ懐かしい味がした。それもそうか。いつも食べてたガムの味だもん。
そうだ、言うなればこれは、

ちゃんの味だね」
「…………え?」
甘酸っぱい匂いに満たされていたはずの交番に、妙な空気が漂う。

いや待て。
待て、待て待て。もしや僕はとんでも無い事を言ってしまったのではないだろうか。
自分の発言を遡り、すぐに答えに辿り着く。
待って、まずい。待って。

「いっ、いや、違う。違うくて!別に変な意味じゃなく!あの、あれ、いつもくれるガムだから!ちゃんのガムの味だから、あの、だから」
「ははは、何もそこまで焦らなくても」
「焦るよ!?」
まあまあ、と困った笑いを浮かべながら勝手に盛り上がっている僕を静めるちゃんを前に、全身の力が抜ける感覚に陥る。
どうしてだろう。どうしていつも言うべき事は言えないのに、訳の分からない事はさらっと言ってしまうんだろう。 僕という奴は。
「かっこわるい……」
自己を嫌悪する気持ちに押しつぶされながら、溜息交じりに項垂れて言う。
いくら思った事はきちんと伝えると誓った所で、やはり肝心なところでへまをする根本的な所を変える必要がある。 これは中々時間が掛かりそうだ。
また暫くあの3人の元からは卒業できそうにないな、と考えながら恐る恐る顔を上げる。
すると、ちゃんははにかんで、赤い実を摘まみ、僕に差し出しながら言った。

「でもそんなイワンが好きだよ、私は」

両頬が赤い。アセロラみたいだった。
でも、それは恐らく僕も同じなのだろう。前に彼女が言っていたとおり、おたがいさまなのだから。僕たちは。
焦燥感は未だ拭いきれない。
しかし、今は多分それでも良い。
ガムの味を知る様に、小さな事をこれからも積み重ねていければ、それに勝る幸せはないのだから。
手を伸ばし、彼女の手から2粒目のアセロラを受け取る。
やや弾力のある表面が光に反射し、笑っているように見えた。
そして僕は口を開く。今日は肺を満たす緑の匂いも、談笑の声も、夕焼けも無いけど大丈夫。

「僕も、ちゃんの事が好き」

こうしてこの素晴らしい物語は、大きくなり続ける気持ちと共に続いていくのだ。