「私と、別れてください」
フローリングの上に直に正座はちょっと辛い。クッションでも敷いておくべきだったと、後悔と呼ぶにはあまりにも小さすぎる後悔が頭を過る。若しくは目の前で、まるで恋人に突然なんの前触れもなく別れを切り出されたかのような顔をした左近と同じように胡座をかくとかしておけば――
初めて一緒に寝た日を皮切りに、幾度となく通った左近の部屋。年季が入ってる、というほどでもないが、四隅の塗装が剥がれかけている黒いローテーブルを挟んで、今の今まで恋人同士であった私達は向き合っている。テーブルの上には付き合い始めて間もない頃、私が家から持ってきたマグカップがふたつと未開封の避妊具の箱。あらゆる意味で生活感がありすぎるこの部屋は、1年半くらい続いた私たちの関係を終わりにするにはあまりにも簡素であまりにも相応しすぎた。
水と空気みたいな存在でありたいよね、お互いに。いつだったか、左近のやけに派手な色をした髪の上にキスをしながら、ほんの気まぐれにそんなことを語った時のことを思い出す。春で、深夜で、ベッドの上で。気持ちが昂っていたのだろう。酒は飲んでなかったけど、自分には酔っていたかもしれない。どこかで見たドラマだか少女漫画だかの受け売りの安っぽい台詞。そこに私の考えなんて2パーセント未満も入っていやしない。左近は犬に似ている。似ているというか、犬そのものだと思う。砂漠みたいな色をした耳をピンと立てて、おせちに入ってる伊達巻みたいな形の尻尾を振りながら鼻をスンスン言わせてじゃれてくる。私の首筋の匂いを嗅ぐのが好きで、待てと言ったら頑張って待ってみるけど結局あと一歩のところで待てなくなってしまう、ちょっとおバカで間抜けだけど愛くるしい柴犬。その時も、忠実なる愛犬であり最高のパートナーである左近は私のなんの気ない言葉に、いつものように「そっすね!」と明瞭に答えた。そこに彼の考えがあったかどうかは分からないが、私にとってはどうでもよかった。だってそれはお互い様だから。左近は私に意見をすることはあっても否定はしなかった。カレーに入れる肉は牛が良いとか、マリオカートは必ずキノピオを使うだとか、お風呂では足から洗うだとか。私のする主張の殆どがくだらないとしか形容できない物だったけど。付き合い始めた頃は気を使っているのかと思ったが、どうやらそうでもないようだった。どうして私を否定をしないの。意地悪な私は彼に尋ねたこともある。しかし返ってきたのは暫く考える素振りを見せた後に覗かせた屈託のない笑顔と「だって俺、さんのこと好きだし?さんは正しいし?」という何の解決にもならない一言だった。そっか、好きだからか。好きだから。じゃあ好きだったら私が憎さに駆られて人を殺そうとしても止めないし、好きだったら私が浮気をしても理由をつけて受け入れるし、好きだったら私が左近のことが嫌いになったと告げてもすんなり受け入れてしまうのか、この子は。続けて私がそう言うと、左近は少し寂しそうな顔をして、また笑った。笑う事を覚えたばかりの赤子のように笑った。それから笑った後に、「浮気は勘弁してくださいね」と低い声で呟いた。俺、さんが居ないと多分生きていけないわ。シャンプーの残り香を撒き散らし、わしわしと自分の頭を掻きながらそう言う左近は、なぜだかとても眩しかった。私が居ないと生きていけないのか。ふうん。無いと生きていけない。死んでしまう。水と空気のように。左近は私のことをそんな風に思っているらしい。その時は適当に流して、そのままの流れで抱き合って死んだように眠ってしまったけれど、南極の氷くらい冷静な頭で今改めて考える。私はどうだっただろうか。毎日会社で会っているというのに、律儀に起床後と就寝前には必ず連絡を寄越し、週末にはまめにデートに誘ってくれる左近。対して、左近からの連絡に緩くふわふわと応じるだけの私。そこには僅かなりとも温度差があった。最初から、あるべきものとしてあるように。左近と話すのはとても楽しい。一緒に居ると安心するし、抱き合うのも、好き。それなりに楽しく仲良くやっていたけれど、水と空気のように情熱的で依存性の高い関係では多分、無かったかな。なんて事を、私を水であり空気であると認定している左近には悪いけど思ってしまう。別れを告げた今ですら不確かなことが多い二人の間で、それだけは明白である。少なくとも私はそう思っている。
左近は私の前で未だに黙っている。喋り方を忘れてしまったのかしら。いい加減足が痛くなって足を崩す。布と布の擦れる音。それに紛らわせるようにして彼は漸く口を開いた。
「どーしても、っすか?」
その時ばかりは彼お得意の「そっすね」は聞けなかった。
----------------------------------------
「。貴様の作成した書類について幾つか尋ねたいことがある」
「はいはいはーい」
ねむい。非常にねむい。平日のお昼からデザートまでしっかり食べるんじゃなかった。等とあさってなことを考えながら、ホチキスで束ねられた紙を、自分で淹れたインスタントコーヒーを啜っていた私の鼻先に突きつけてやたら不機嫌そうに宣う同僚の三成に気のない返事をする。彼は真一文字に結んでいた唇の端に一層力を入れた。貴様何だその態度は。大体貴様はいつもそうだ。半兵衛様から仰せつかった重要な職務にも関わらず適当な気持ちで向き合うなど言語道断。呑気に珈琲を飲むなど赦されない。だから不備が生じるのだろう。うーん、よくもここまで口が立つものだ。石田さんって~あんま喋んないから何考えてるのかわかんなくてぇ~と甲高いわりに粘っこい声で語る他部署の頭の緩そうな女性社員は以前言っていたけど、実際彼はお喋りなのかもしれない。絵に書いたようなお小言(悔しいが半分くらいは正論であると認めざるを得ない)をつらつら並べる三成に体を向けて「うん」とか「すん」とか言って渋々対応してあげていると、三成の向こうにやけに目立つ髪の色をした社員が見えた。私が見間違えるはずが無い。左近だった。私が過去にした男、左近。ちょびっとだけかわいそうな左近。高校生が着てるやつみたいな大きめのぶかぶかしたベージュのカーディガンの袖をまくり、大きなダンボールを運んでいる。俺、若いし頭もそんなよくないから力仕事してる方が働いてるって気になるんだよなあ。本人もそう言っているからか、彼は部署の中でも庶務全般というか、まあ平たく言えば雑用というか、そんな仕事を任されたり、自分でわざわざ拾ってくることが多かった。その時も上から命じられたのか、自分で拾ってきたのかは分からないが、彼はたくさんの荷物を右から左へせっせと運搬していた。かつて体の隅々まで知り尽くした関係でも、場所が変わると私や彼の家とはまた違った雰囲気を纏っているように見える気がする。スーツ姿を見慣れた人の私服を見るとドキッとするとか、そんな程度だけど。私が熱い視線を注ぎすぎたからだろうか。ぷんすこという擬音が聞こえてきそうな勢いで怒る三成の肩越しに、左近と目が合った。色素の薄い、栗の殻みたいな色の瞳はここからじゃよく見えなかった。でも、彼が苦手なブラックコーヒーを飲んだ時みたいにくしゃっと笑い、ダンボールを器用に体で支えてこちらにヒラヒラと手を振るのははっきりと見えた。ずきん、とお臍と心臓の真ん中あたりから、鈍い音が聞こえた気がした。
「おい、聞いているのか!」
「…あ、ごめん。全く聞いてなかった」
「貴様」
三成は握りしめた拳をわなわなと震わせる。ちょっとからかいすぎたか。三成に深々と頭を下げて謝罪をし、再び顔を上げた時、既に左近のちょっと疲れたようにも見える苦い笑顔は本人ごと姿を消していた。思えば、頬がこけていたような気がする。ちゃんとご飯は食べているのだろうか。最後に見た、食べるラー油とクリスタルガイザーしかない左近の家の冷蔵庫の中を思い出す。
----------------------------------------
三週間前の日曜日、私が左近の部屋で一方的に別れを切り出して以来、私達は一度も言葉を交わしていない。だから私がドアの外に出てから今までに至る、互いの動向など知る由が無い。お互いの心も時間も欲しいままにしてしまえる恋人ではなく、ひとりの男とひとりの女に戻ったのだから当然だろう。大海原よりも広いこの世の中には恋人から友達に戻れるという人種もある一定数存在するらしいが、私の中にはその選択肢は存在しなかった。こちらから頭を下げて終わりにしたのに「お友達になりましょう」だなんて、余程の世間知らずか、非常識人か、ドSでなければ言えるはずが無い。私にはそこまで左近を困らせてやろうという気持ちと根気が存在しなかった。そもそも、私は左近を困らせたくて別れた訳では無いのだし――
そんな、ぐるぐると出口の無い考えを巡らせながら夜の街を歩いていると、危うく目的の居酒屋の前を通り過ぎそうになっていた。この都会に星の数くらいとあるような形の雑居ビルの2階へ続く階段を上り、暖簾をくぐった時に乱れた前髪を整えながら派手な髪の色をした学生さんっぽい若い店員さんに名前を告げると、お連れ様ご来店ですーの威勢の良い掛け声がフロアに響き渡る。金曜の夜というだけあり、席はくたびれたサラリーマンやアルコールを覚えたばかりの大学生達をはじめとする様々な客で全て埋まっているようだった。この店員さんの髪の色、良い色だなあ。アンタの笑顔が見たい。という、彼のTシャツに書いてある文字に続いて迷路みたいな店内を抜ける。林檎みたいな赤だ。燃えるような赤。でも全体をそれで覆われるとちょっとやっぱり下品かも。染めるなら、こう、ワンポイントになるような、っていやいやいや私は何を考えているのかしら、
「意外と早かったな」
「あ、お待たせえ」
私が店員さんの意味の色に釣られてうっかり頭を過ぎりかけた柴犬の笑顔を丸めてポイするのと、木のテーブルに肘をついて私を見上げる孫市の切れ長の目を捉えるのは、ほぼ同時の事だった。
「親愛なる雑賀孫市様に本日はわたくしから重大なご報告があります」
「聞こう」
「えー、この度、わたくしは、予てより交際しておりました同じ会社の後輩である島左近と…」
「別れたのか」
「…先に言わないでよお」
折角改まって挨拶しようと思ったのに。態とらしくむすっと頬を膨らませて見せると、孫市は「悪かった」と苦笑し、ビールの入ったジョッキを煽った。その所作ひとつひとつの無駄のなさは、私が彼女と知り合った、大学生の頃から全く変わらない。孫市は物事を非常に合理的且つ的確に判断をすることが出来る。これは自分にとって必要なものなのか、必要ないものなのか。その人間と付き合うことは自分にとって損か得か。その慧眼と仕事に対する姿勢、能力の高さは同業他社にも評判で、私の直属の上司もどうにか引き抜けないものかと思案していたのを知っている。もし、そんな彼女のような慧眼を持っていたら、私もさっきの店員さんにうっかり自分から振ったはずの昔の男を重ねたりはしなかっただろうか。そんな、有りもしないことをサワーをちびちび飲みながら考えてしまう。
「もし今のが『入籍しまーす』って報告だったらどうしたの」
「その可能性は万に一つも無い」
「そう断言されちゃうと何も言えないや」
でも孫市には事前に相談というか一方的に考えを吐かせていただいていたし、そう思われていて当然か。ははは、と自然に出てきた乾いた笑いを飲み込むことなくそのまま漏らす。気を紛らわせるために枝豆に伸ばした指先が、何故だろう。ほんの少し震えていた。
「しかし意外だった。随分と晴れやかな面持ちなのだな」
「えー?そりゃあ一応私から振ったんですし…うじうじしてたら先方に申し訳が立たないと言いますか…せめて私は堂々としていなきゃいけないと、言いますか…」
って、何で敬語なんだろう。可笑しいね。そう自嘲すると、孫市がふっと笑みを浮かべながらそうだな、と肯定してくれる。それからひとしきり笑って、私の終わった恋愛の話から矛先を自然な感じで孫市の尻を追っかけ続ける慶次の近況へと移し――
そんな私の計画は、次に発せられた孫市の一言によって無に帰した。
「」
孫市は敵に回すと恐ろしいタイプの人間だが、信頼する人間に対しては基本的に温厚に、冷静に接する。そんな彼女は、偶にとても怖い顔をする時がある。怖いと言っても鬼だとか妖怪だとか、そういった類の物ではない。永遠に溶けない氷で覆われたような冷ややかさと、獲物を見つけた猛禽類を思わせる鋭い眼光。僅かに開けられた唇。“その顔”を私が見たのは、彼女と出会って以来、たった3回だけだった。1度目は大学時代、両親と就職に関することで喧嘩をして家を出ると宣言をした時。2度目は左近の前に好きになった人との交際をするべきか迷っていると告げた時。
そして3度目は、今だった。
「は?…はい」
孫市がこの顔をする時は決まっている。私の中に眠る本質を見抜いた時だ。私でも気づかないような、気づけないような、核を見つけた時。この眼に捕らわれてしまってはもうどうしようもない。これからどんな制裁を下されるのかはわからないが、それだけはわかっていた。テーブルの下でぎゅっと握った掌が、汗で湿っていくのを感じる。姿勢を正し、恐る恐る孫市の眼を見る。先ほどまで煩わしかった周囲の笑い声や物音は、耳栓をねじ込まれたかのように一切気にならなくなって、
「お前にひとつ問おう」
「…はい」
「振った男の事を態々案じる必要があるのか?」
頭の中で、サイレンのような音がわんわんと鳴り響いていた。