さよならバイスタンダー

#2


ロミオメール。別れた元恋人に復縁を迫る目的で送られる、重すぎる愛を込めたメールのこと。その名の通り、大抵の場合それは女に別れを一方的に告げられたロミオ、即ち男の方からジュリエット、即ち女の方へ送られる。こんなスラングが生まれて一人歩きできるだけあり、世間一般の認識からすると『男は阿呆だが阿呆なりによく考えており、その考えが変な方向に行き過ぎると修正するのはとても難しく、結果奇行に走ってしまう』という事なのだろう。終わりはともかく、そこに至るまでの日々は振り返ってみると些細な事でも美しく見える。寂しさを理由にして過去に縋ってしまうその気持ちはわからないでもない。そしてその美しく輝かしい過去を思い起こす自分に酔いしれる人の気持ちも。女の恋愛は上書き保存・男の恋愛は名前をつけて保存なんて誰がどこで提唱し始めたのかわからない理論もあるが、女だって上書きしても前のフォルダの名前くらいは覚えている。少なくとも私はそうだ。自分で名前をつけたのだから、上書きしようとしても前につけた名前にほんの少しだけ、懐かしさとか、愛着とか、そんなものを感じてしまう。しかし、本当の上書き保存とは、そのような『未練』の類は一切感じないらしい。ということを、怖い顔をした孫市は淡々と、しかしはっきりとあの日私に伝えた。そしてその言葉を奥歯でよく噛み締めて飲み込んでから、漸く気づいた。これまでに反故にした男女関係の中で、私がこんな思いをするのは初めてであるということに。私は左近に別れを告げたことを後悔している、らしい。いや、後悔をしている。でも、一体何に?そして、私がいないと生きていけないと言った左近は私と過ごした日々にどんな名前をつけて保存をしているのだろう?ふと、気になった。

「あれ?じゃねえか?」
自宅の最寄り駅に着いて定期を出そうと鞄の中を引っ掻き回していると、聞き覚えのある声が旋毛の上辺りから降ってきた。顔を上げると真っ先に飛び込んでくる、触り心地の良さそうな銀髪。
「元親」
「なんだ、やっぱりそうか。随分久しぶりじゃねえの」
元気にしてたか?いつぶりだ?花見の時以来じゃねぇか?背ぇ縮んでね?
三成の友人を自称する、竹を割ったような性格の元親は、鼻の頭を掻きながら快活に笑う。 学生の頃地方から出てきて以来こちらに住み着きそのまま就職をした彼は、私の家からほど近い場所に住んでいる、所謂ご近所さんである。普段はバイクで通勤している筈なので駅でばったり出くわすという事はほとんど無いのだが、珍しいこともあるものだ。愛車は?と問うと、「今日は慶次と呑む約束してたかんな」と八重歯を覗かせ、少し照れくさそうに笑った。なるほど、白い頬が僅かに赤くなっている気がするのはそのせいか。
「しかし、お前随分と帰りが遅ぇな。残業か?」
「そんなとこ。繁忙期ってやつです」
「じゃあ石田の野郎が連絡しても返事寄越さねえのも納得だわ」
「それはいつもの事じゃないの?」
「まあ…そうなんだが」
そう言われると何も言えねえわ。少しずつ駅の喧騒から遠ざかりながら、街灯の下を何でもない話をしながら元親と並んで歩く。時折すり抜けていく車が二人の行く手をチラチラと照らした。
「…そういやお前、サヤカと喧嘩でもしたのか?」
3つ目の交差点で信号待ちをしている時、はっと思い出したようにして元親が言った。
「…はい?」
「いやあ、こないだの金曜?木曜?だったか?帰りに会社の近くでアイツとばったり会ってよお。どっかでメシ食ってきた帰りだっつーのになーんかやけに不景気な顔してたから」
あいつがあんな顔するの滅多にねぇんだよ。隠し事が苦手で、表裏がない。元親は他意はなく、昔馴染みの孫市のことをただ純粋に案じており、親しい共通の友人である私に聞いているようだった。
「…孫市は、何て?」
その原因はもしかしなくても目の前の私だよ。そう言えるはずもなく、ぼんやりとした輪郭の返事をひたすら返す。元親は一瞬不思議そうに眉根を寄せたが、すぐにわしゃわしゃと頭を掻きながら唸るように言った。
「…結局俺がしつこく問いただそうとしても最後まで詳しくは話さなかったが…『自分の周りにはどうも、無意識のうちに妙な意地を張る奴が多くて困る』とかなんとか言ってたなあ」
「ふうん」
意地。ああ、そうか、意地ね。なるほど。確かにそうかも。信頼する友人に、人を介してだが改めて自分の抱えるもやもやした感情に名前を与えられ、私は妙に納得をしてしまった。
「そう言うあいつもある意味相当な意地っ張りなのになあ?」
まあ俺もだけど。元親のお腹の底から湧くような笑い声がしんとした住宅街に響く。意地っ張り。元親も、孫市も、そして私も。みんな同じなのに、私はみんなのように割り切って生きられないのはどうしてだろう。みんなと何が違うんだろう。みんなと同じだったら、袖にした男のことでいつまでもうじうじと悩むことはなかったのだろうか。或いは、袖にすることすらしなかったのだろうか―― 三叉路で元親と別れ1人になった後、そんなことが頭に浮かんだ。ふいに眼の奥底から涙が込み上げてきた。辺りには誰もいなかった。いなかったのに、私は強く眉根を寄せて、目を瞑った。ああ、やはり私は意地っ張りなのだ。

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ごてん。

鈍い音を立てて自分のデスクに突っ伏すと、間髪入れずに「やめて。机が壊れる」という上司からのトゲトゲしいご助言が飛んでくる。
「私の頭突きで壊れてしまう机なんて捨ててしまえ…」
「いい加減にしな」
「うぐ」
直属の上司であり幼馴染である半兵衛に後頭部をバインダーでぎゅうぎゅうと圧迫され潰れた蛙のような声を上げる。やめてください半兵衛様あ。彼のことを崇拝してやまない三成の真似を、本人が出張中で席を外していることを良いことにしてみると、半兵衛はやれやれと肩を竦めながら自分のデスクにつき、今しがた私をプレスしていたバインダーを開きながら「しかし、珍しいこともあるもんだね」と呟いた。勢いよく突っ伏したせいか、容赦なく圧迫されたせいか。頭がズキズキと鈍い音を立てて痛む。
「…何が珍しいの?」
「君が何か随分と小難しいことを考えている様子だから。昨日の夜何か変なものでも食べた?」
「失礼な」
勢いよく上体を上げると、椅子がぎぃいと苦しそうな悲鳴を上げる。その様子を見て、半兵衛は「いや、僕の思い過ごしかな」と苦々しく微笑んだ。細いフレームの眼鏡のレンズの向こうで揺れる瞳は私のことを静かに見据え、気を抜けば骨の髄まで見通されそうだ。半兵衛は人の本質を見抜く能力に長け、その上付き合いも長い。私が抱えるものを表に晒されるのは時間の問題だろう。その視線から逃げるように顔を伏せ、書類に目を通す振りをしながら「何があったのか、聞かないの?」と問う。すると彼は少し間を置いてから、「聞かないよ」と言って笑った。
「なんで?」
「だって、聞かなくても大体わかるから」
降参。心の中で勢いよく白旗を上げた私はそれはそれはひどい顔をしていたらしい。その顔面白いからやめて、と半兵衛は鈴を転がすような笑い声を上げた。
「何があったのかは聞かない」
「…うん」
「でもひとつだけ、幼馴染として言わせてもらうと、」
「うん?」
「君はもっと自分に素直になるべきだと思う」
言い終えると、半兵衛は僅かに目を細めた。レントゲン機能を搭載した瞳が占める面積は半減したが、それでもその目は相変わらず私の心を鷲掴みにして揺さぶり続ける。素直になれ。もう一度頭の中で唱えてみる。素直になれ。私はその言葉を誰かから言ってもらうのを、もしかしたらずっと待っていたのかもしれない。堪らなくなったのと、鼻の奥がつんと痛くなってきたの、その両方を誤魔化すようにして、私は半兵衛から視線を逸らす。
「…それ、半兵衛が言う?」
「言う」
「そう…」
照れ隠しに茶化すようにして返した私の言葉に対しても自信満々に宣う彼は、手持ち無沙汰に愛用の万年筆をくるくると指先で弄ぶ。ぱた、とファイルを閉じて席を立つと、私の元へ歩み寄り、私の頭に右手を置いた。と言っても幼子をあやすように撫でるのではなく、掌全体でボールを掴み上げるかのように、がっしりと。いたい。目だけを動かして訴えると、半兵衛は暫く何かを見定めるようにして私の顔を覗き込んだ後、「…今日は早く寝なよ」と言ってファイルを本棚へと戻しに行った。言われなくても寝るよ爆睡だよ。背中に向かって噛み付くように言う。頭がまだずきずきと痛む。強く掴みすぎなんだよ、ほんとに。こういう時に「ありがとう」の一言が出てこない私は、まだ当分素直になれそうにない。

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体温計なんて数年前に基礎体温グラフを付けようとして挫折した時ぶりに使った。部屋にあるものは定期的に纏めて捨てたくなるけど、取っておいて正解なものもあるんだな。過去の自分を一通り褒め称えたところで体温計に表示された『38.20』という数字は変わることがないというのは、熱に浮かされ回らない頭でも理解できる。とりあえず半兵衛に連絡…と枕元に置きっぱなしにしていた携帯を取ったところで、今日が土曜日であることに気が付きほっと胸を撫で下ろした。不幸中の幸いとはまさにこのことだろう。昨日、半兵衛から頂いた貴重なご助言を思い出す。早く寝なよ。あの時の頭痛は頭に度重なる衝撃を加えられたことに寄るものでは無かったのだな。こうなることがわかっていたのか、偶然か。どちらでもいい。やはり半兵衛には適わない。全てを見透かすあの双眼を思い描きながらもう一眠りしようと目を閉じると、携帯が鳴った。空気読んで。やけになってもう一度目を開く。画面に表示された名前を見て、細長い溜息を吐く。頭痛が先ほどよりも酷くなった気がした。
「はあい…」
「遅いぞ。まさか寝ていたのでは無かろうな」
「起きてた起きてた」
「ふん、ならば良い」
電話の向こうだというのに、三成の苛々した声はダイレクトに脳髄へ伝わってくる。休みの日にわざわざ声を聞きたくないランキング堂々の1位に君臨する彼からの要件は、仕事についてだった。そういえば昨日から出張だったっけ。行先は忘れちゃったけど、確か西の方。電話を通すとより一層機械みたいに聞こえる三成の声に端的に答えながら、声が出しにくくなっていることに気が付く。マスク、あったかな。探すよりも寝た方が早い気がするから、そのまま寝てしまおう。
「…それで貴様、その声はどうした?」
三成が確認したかった事を一通り伝え終え電話を切ろうとすると、三成から尋ねられた。他人の動向などどうでもいい。そんな風に自分を貫いて生きている彼にまさか私の声の違いを感じ取る能力が備わっていたなんて。心底吃驚しつつ、「風邪を少々…」と答えると、耳元で深いため息が聞こえた。
「どうせ腹でも出して寝ていたのだろう」
「もう少し病人を見舞おうとかそういう気づかいはないんですかね…」
「そういうのは私ではなく左近にでも頼んでおけ」
三成が引き出してきた名前にどきりとしていると、電話の向こうで「騒々しいぞ左近、資料は不備なく用意できたのか」と近くに居るらしい手のかかる部下を諫める声が耳に入ってきた。左近。そっか、左近も一緒に居るのか。電話の向こうで響く三成の大きな声に紛れさせるように「さこん」とぽつりとつぶやく。そんなはずないのに、随分と長い間その名を口にしていなかったような、そんな気がした。
「…まあ良い。即刻就寝し、週明けからの業務に支障を来すな」
「はいはい」
何がまあ良いのだろう。聞いてみようかと思ったが、そうする前に電話が切れた。どうせ大したことではない。それよりも、痛む頭に次々に浮かんでは消えていく問題の数々を全て放棄して、今は兎に角眠りたかった。