Goldrushed!

#7


それからこの日は、まるで部長から聞いたあの言葉が私の背中を見ない手でぐいぐいと押しているかのように、何もかもが面白いほど円滑に運んだ。
私のデスクワークはもちろん、ライアンの仕事も事件・事故という邪魔(こう表現すると当の本人は怒るだろうが、私にとっては障害でしかないので仕方ない)が入ることなく、予定通りの時程で行われた。
ここ数週間、日付が変わってから退社することが多かった私は、まだ多くのお店が開いているほど早い時間に帰宅できるかもしれないという甘美な予感に、胸を躍らせる。
鼻歌を交えながらスキップをしたい衝動を必死で押さえつつ撮影を終えた後、ライアンと一度帰社し、明日の打ち合わせを軽く行う。
振り返ってみれば、まさに文句の付けようがない、完璧な1日であった。

「じゃあ、明日は15時に出社して下さいね」
「りょーかい!」
「ダメ元で言っておきますが、遅刻厳禁ですよ」
「え、なに?聞こえなーい!ちゃんに耳元で優しく囁いてもらわないと俺聞こえなーい!」
「耳鼻科行ったらどうですか」

他愛もないやりとりをしながら退社するためにエレベーターホールを目指し、廊下を並んで歩く。
最近の私にとっては充分すぎるほど早い退社時間であったが、会社自体の定時はとっくに過ぎており、社内には昼間ほどの活気も人気もない。
いつもの調子でおどける彼をいつもの調子で軽くあしらいながらも、達成感と満足感からか、普段と比べものにならないくらい心に余裕を持って彼に接することが出来ている自分に気がつき、どこまでも単純な自分に自分で少しだけ呆れていた。

ちゃんって普段家帰ってから何してんの?」
「えっ…?テレビ見たりとか、本読んだりとか…。でも最近は残業続きだったし、ほんとに寝に帰ってる感じだったかな」
投げかけられた質問に正直に答えると、彼は「うっわー!マジで色気ねぇな!」とその場に立ち止まり、大げさなリアクションで驚いてみせる。
「放っておいてください!」
そんな彼の方を振り返りながら私は声を張り上げた。
そしてそのまま前方の確認を怠った状態で廊下の角を曲がると、“何か”が左肩に接触する。

「痛っ」

強い衝撃と降りかかる不機嫌そうな男性の声から、私は人にぶつかってしまったことを瞬時に理解し、慌てて謝罪の言葉を口にする。
「ご、ごめんなさ――」
が、今しがた自分が謝罪の言葉を向けた相手の顔を認識すると同時に、言葉を失った。

「――ッ!?」
「げっ、!」
「えっ、…ちゃん…!?」

廊下の角を曲がった先に居た、口に出すのも恥ずかしい、明らかに会社の廊下というパブリックな場で行うべきではない行為をしようとしていたであろう男女が私を見た瞬間、こぞって私の名前を口にする。
普段ならば誰と誰がどこで何をしようとも“何も見なかった”ことにして足早に通り過ぎてしまえるが、今は状況が違う。
なぜならば、私は哀しいことに、この男女のことを、よくよく知っていたからだ。

私は、頬を上気させながら壁にもたれかかる小柄な女性――他でもない、私が兼ねてから公私問わず様々な相談に乗ってもらっていた、誰よりも信頼していた同期――と、左手を女性の腰に回し、胸元に顔を近付けていた男性――他でもない、半年前に「好きな人ができた」という理由で私を振った、いわゆる“モトカレ”――を、ゆっくりと交互に見つめる。

「なに、してんの」
鈍器で殴られた後のような衝撃を受けて上手く働かない頭を必死に回転させ、呼吸を整え、目の前で慌てふためいている2人に問いかけるが、まるで私の脳が2人の全てを全身で拒絶しているかのように、私の耳に2人の声が届くことはなかった。

「もぉ、ちゃん、よそ見してたらだめじゃーん………って、待って、何この空気?」

そんな3人を包む凍りついた空間に、後方から届くライアンの気の抜けた声が虚しく響く。
ライアンは壁際の男女と、2人を見て呆然と立ち尽くしている私とを見比べて顎に手を当て暫く考える素振りを見せた後、

「……んあー?何か、ワケありって感じ?」

そう言って、私の小さく震える左手を掴み、私の耳元で小さく「階段から行こ」と囁くと、そのまま早足で今歩いてきた廊下を引き返し始める。
私は何も言えず、黙ったまま、ただ彼に掴まれた左手を見つめながら、おぼつかない足取りで彼に続いた。

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「はい、コーヒー」
「…ありがとうございます」
薄暗い非常階段の踊り場に腰掛け、差し出された缶コーヒーをまだ震えが収まらない右手で受け取る。
ライアンは短く息を吐きながら私の左隣に腰を下ろすと、私のコーヒーと一緒に買ってきた炭酸飲料を一口飲んだ。

「………」
「………」

沈黙が2人の間に流れる。
初めは我慢していたものの、とうとう重苦しい空気に耐えきれず、普段は黙っている時間の方が短いくらいなのに、今は頑なに口を開こうとしない彼に「何も、聞かないんですか?」と恐る恐る尋ねると、静かに首を縦に振った。
「誰にだって話したくないことくらいあんだろ。それをわかっておきながら、こっちから聞くのは無神経ってやつじゃん?」
「……はあ…」
「それに今回の場合はちゃんにわざわざ聞かなくても大体想像つくし」
「うっ…」
「ハハハ、ごめんごめん」
痛いところをつかれ思わず頭を抱える私に、彼は声を上げて笑った。

「自分が、情けないです」
私は彼を一瞥した後、顔を伏せ、缶を持つ手に力を入れ、ぐっと唇を噛みしめる。
約半年前、彼氏に袖にされたことに関しては、直後に訪れた尋常ではない程の忙しさによりすっかり忘れ去っていた“つもり”でいた。
しかし、それはただ単に仕事のせいでその問題について考える時間がなかっただけであり、問題は解決することがないまま心の奥底にずっと眠っていたのだ。
それに加え、自分が心から信頼していた人間に裏切られていたことにも気づけなかった。
つい先日も、彼女に仕事の愚痴を聞いてもらったばかりなのに。私の話を笑顔で聞きながらも、心の中では私のことを見下していたに違いない。
どこまで自分は諦めが悪く、人を見る目がなく、そして馬鹿で、間抜けな人間なのだろうか。

「付き合わせて、ごめんなさい」
滲む視界の端に彼を捉え謝罪すると、彼は眉を顰めて私の顔を覗き込んだ。
「何で謝んの?」
「だって、」
私が言葉を濁すと、彼は大きく伸びをした後、足を階段に投げ出し、口を開いた。
「なんつーかさ、ちゃんにはお世話になってるし、俺のこと、もっと頼ってよ」
「…世話になってるって、私は仕事をしてるだけですし…」
私が洟をすすりながら反論すると、彼はやれやれと言うように肩を竦めて見せた。 「いやいや、仕事とかとりあえず置いといて。俺、一応市民を守るヒーローだからさ?そこんとこ忘れてなーい?」
「ヒーローって、市民の人生相談にも乗るものなんですか?」
「……え!?……場合によっては?」
私の切り返しに珍しく動揺する彼を見て、思わず吹き出す。
「ふふっ、なにそれ、初めて聞いた」
その様子を見て、彼は安堵の表情を浮かべた。
「あー!やっと笑ってくれた!」
そう言いながら、カメラの前で見せる営業用の笑顔ではなく、無邪気な笑顔を見せる彼を見て、私は痛む胸の奥で何かが跳ねるのを感じる。

(…なんだ、これ?)

たった今自分の中に芽ばえた、得体は知れないが決して悪い物ではない感情に疑問を抱きつつ、それまで心の中を支配していた響めいた感情が、いつの間にか軽減されているのに気がつく。
彼の言うとおり、自分のことを信頼してくれるこの人を、もう少し信頼し、自分も頼ってみるのも悪くないのかもしれない。
彼から受け取った缶コーヒーを漸く開け、我ながら、そんな“らしくない”ことをぼんやりと考えていた。