「じゃあ今日はこれで。来週の撮影、よろしくね」
「はい、お疲れ様です!」
私は勢いを付けて椅子から立ち上がり、広報担当の女性社員――ナタリさんに一礼する。
長時間に及んだ打ち合わせも一段落し、内心でほっと一息吐いた。
ライアンはこの会社の所属ヒーローとなってから、シーズン毎に出している自社カタログのモデルを務めていた。
本来ならば企画も制作もプレスに一任してしまっても良いのだが、熱心なナタリさんは「“会社の顔”なんだから、彼のパーソナルな面を知ってカタログにも取り入れたい!」と主張し、彼やそのマネージャーである私は頻繁に彼女と顔を合わせ、綿密な打ち合わせを行っていた。
そんな彼女の惜しみない努力の結果、今やうちのカタログは顧客だけでなく同業他社からも注目されるようになり、更に前シーズンの売り上げも伸びたというのだから、私も“看板モデル”である彼のマネージャーとして全力で協力せざるを得ない。
また、今はヒーローのマネージャーとして毎日奔走しているためうっかり忘れてしまいかけているが、私は元々服が好きでこの業界に入ったため、ナタリさんと「ああでもない、こうでもない」と言いながらコンセプトを決めたり、どんな服が彼に似合うかを考えたりするこの打ち合わせの時間は苦ではなく、それどころか、密かな楽しみですらあった。
「なんかさ、ちゃん、変わったよね」
ナタリさんの突然の声掛けに、私の机上の書類をまとめる手が止まる。
「…はい?」
視線を手元からナタリさんへと移し怪訝な顔で見つめると、彼女はゆっくりと目を細めた。
「前より…なんて言うんだろう、丸くなった?」
ファイルを胸の前で抱え、ただにこにこと微笑む彼女に「太ったってことですか?」と返すと、「そっちじゃなくて、性格の方」と言い、声を上げて笑った。
「…自分では全くわからないんですけど、そう感じますか?」
会議室から廊下に出ると同時に、私はナタリさんに問いかける。
丸くなった?性格が?
自分でも驚くほど全く自覚がない彼女の指摘に、驚きを通り越して恐怖すら感じる程だ。
性格が変わったというか、(主にライアンに関することでは)以前より打たれ強くなったとは自分でも思っている。
彼が何をしようが多少のことでは驚かなくなったし、何を言われようが動じなくなった。
よく言えば寛容になったとも言えるが、果たしてそれは丸くなったうちに入るのだろうか。
しかも仕事でしか顔を合わせることのない人間から指摘されるほどに。
廊下を歩きながらぐるぐると考えを巡らせていると、隣でナタリさんは「うーんとね…」と呟き少し考えた後、口を開いた。
「昨日、ライアンと3人で打ち合わせしたときも思ったんだけど、」
「はい」
「数ヶ月前に比べて最近は随分ライアンを見る目が優しくなったような」
「……え?」
「余裕?っていうのかな?それが感じられるようになったよ」
【優しくなった】【余裕】
この2つの奇妙なワードに、一瞬眉を顰める。
あくまでも冷静な自分を装いながらも胸の内では混乱し右往左往している私に、彼女は更なる追い打ちをかけ、思考が完全に停止した。
「なんかプライベートで良いことあった?」
「……。哀しいことに、全く」
必死に喉の奥から絞り出した声が我ながら情けなさすぎて笑えてくる。
そして、口先では『全く』と言いつつも、何故か――本当に何故なのかわからないのだが――先日の(できれば思い出したくもない)一件の後、非常階段の踊り場でライアンの隣に座ったときに一瞬自身の胸の奥に湧いた、あの“得体の知れない感情”が思い出され、心臓が見えない鎖で縛られるかのように締め付けられる。
(これは、一体、なに?)
「そうなのー?好きな人でもできたのかと思った」
無邪気に笑いながら「じゃあね」と手を振り自分の部署へと戻っていく、数々の爆弾を私に投下していったナタリさんの背中を、私はずきずきと鈍く痛む胸を押さえながら見つめることしかできなかった。
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「ライアンさん、戻りましたー……って、あれ?」
ふらふらとした足取りでどうにか事業部まで戻ると、私が打ち合わせに出かける前には確かに自分のデスクに座って書類を書いていたライアンの姿はなかった。
外出してるのか、部長にでも呼び出されたのかな、と不審に思いつつ自分のデスクに向かいながら室内を見渡すと、
「あっ」
部屋の隅に置かれた、主に私が残業中に仮眠を取る際に使用しているソファの上に横たわり、寝息をたてる彼の姿が目に入った。
私が働いているのにシエスタとは良いご身分だなヒーロー様よ…と、今すぐたたき起こして小言の1つ2つ言ってやろうかと思ったが、デスクの上に置かれた完成した書類を見て私はぐっと言葉を飲み込み、代わりに短く息を吐いた。
今朝早くに出動要請があったし、その前日も遅くまで取材があった。いくらタフな彼とは言え多少疲れているのかもしれない。
それに、やるべきことをきちんとこなしているのだから私も文句は言えない。
そんなことを考えながら私は自分のデスクの1番下の引き出しを開けて膝掛けを取り出し、彼の身体に掛けた。
明らかに長さが足りないが、何も掛けないよりはマシだろう。
そう自分自身に言い聞かせてうんうん、と腕組みをし頷き、改めて彼の顔に視線を移す。
普段は強く自信に満ちた視線を送る瞳も、一度開けば適当なことをずらずらと並べる唇も閉じられており、ただ、穏やかな寝息だけが聞こえる。
毎日のように顔を合わせ共に過ごし、これまでに彼の様々な表情を見てきたつもりで居たが、今初めて見る無防備な寝顔に、先ほどまで抱いていた、心臓を締め付けるような痛みを伴うあの感情が再び胸中を満たす。
私はへなへなと力を無くし、ソファの前にしゃがみ込み、今一度先刻ナタリさんに言われたことを思い出す。
『余裕?っていうのかな?それが感じられるようになったよ』
――余裕が感じられるようになったのは、単に仕事に慣れたからではないだろうか。
彼と過ごしてもう半年以上が経つ。余裕が出ない方がおかしい頃だ。…根拠は無いが。
『なんかプライベートで良いことあった?』
――良いことは無かった。悪いことは、あったけど。
しかし“例の一件”後、彼をもっと信頼してみようと思い始めたことで、以前より彼との心の距離が縮まったのは、恐らく気のせいではないだろう。
そして仕事にやりがいは感じていたが、何よりも、楽しめるようになった。いつからかははっきりと思い出せないが、“例の一件”の後と重なる…かもしれない。
『好きな人でもできたのかと思った』
――もしかすると、
すっかり自分の世界に入り込んでしまっていたが、「ん、」という低く短い唸り声に、我に返る。
視線を再び彼へと向けるのとほぼ同時に、彼の瞼がゆっくりと開き、明るいグリーンの瞳が私を捉えた。
「ちゃん、おかえり」
右手で目を擦りながら私に声を掛ける彼に、「も、戻りました…」と間抜けな声で返す。
彼は暫く、私がソファの前で不自然に座り込んでいる様子を眉を寄せながら観察していたが、すぐに悪戯っぽい笑顔を浮かべた。
「…俺の寝顔に見とれてた?」
「なッ……!?」
言葉を失う私を見てひとしきり笑うと、
「じょーだんだって、かわいーなーもう」
大きな欠伸をしながら起き上がり、律儀に私の膝掛けを畳み、差し出す。
それを受け取りながら、
(やはり、私は――――)
私はこの、静かに芽ばえた感情に、そっと蓋をした。
今はそうせざるを得なかった。