「どうして、」
重々しい静寂を破ったのは私の、やっとの思いで喉から絞り出した泣きたくなるほどに情けない声だった。
私が問いかけると、ライアンは溜息のような笑い声を漏らす。
「…実は、海外の会社から俺に直接オファーが来ててさぁ」
声色は明るいが、そう語る表情はどこか淋しげなものだった。
気持ち悪い。そこはかとなく漂う違和感に私は眉根を寄せる。
私の歪んだ顔を見て、ライアンは呆れたように笑いながら、「んな怖い顔すんなって」と窘めた。
「んま、この街でも充分活躍したし?どんどん新しい場所で自分の力を試したい気持ちもあるしな」
少しだけ、いつもの自信に満ちあふれた表情を取り戻し、ライアンは意気揚々と語る。
“様々な土地で様々な経験をし、自分の力を試したい”
彼の今までの経歴から考えれば、実に納得のいく理由である。
しかし――
「でも…でも、昨日はこのまま続けるって。どうして今更変えるんですか?理由を教えてください」
昨日、確かに彼は私と部長の目の前で「契約を更新するつもりだ」と話した。加えて、「そっちさえよければ」とも。
その時の表情には一点の曇りも迷いもなく、今日の妙に浮ついた雰囲気の彼とはまさに対照的であった。
私は彼の心を変えた理由が知りたくて、まっすぐにライアンを見据える。
窓から差し込む自然光と蛍光灯、2種類の光源によって照らされる彼の瞳は、不思議な色に輝いていた。
思えばこうして向き合って彼の目をじっと見るのは初めてかもしれない。
彼の瞳は、こんなに綺麗な色をしていたのか。
あんなに長い間一緒に居たのに、まだまだ彼について知らないことは数え切れないほどあるのだ。
そう思うと、心にぽっかりと穴が空いたように寂しくなった。
「言えないような、理由なんですか」
視線こそ逸らそうとしないものの、真一文字に口を結び黙りこくったままの彼に痺れをきらし、再び問いかける。
まるで彼の周りだけ時が止まっているかのように静かである。
「お金、ですか」
ギリギリまで言おうか言わまいか迷ったが、激昂される可能性があるのも覚悟の上で、私は遂に自らその単語を口にした。
もう、それしか考えられる要素が見当たらなかった。
目の奥が熱くなる。
一緒に仕事をしているときは、延々と私に話しかけてくるライアンに「1分でも良いから黙っていて欲しい」と何度願ったことかわからないが、何も今黙らなくてもいいじゃないか。
もう黙っていて欲しいだなんて思わない。だから、どうか――
私が頭の片隅でよくわからない祈りを捧げ始めるとほぼ同時に、漸くライアンは貝のように固く閉ざしていた口を開き、
「普段の俺なら『そうだ』って言うところだけど、今回は残念ながら違う」
苦しそうに笑った。
私の問いかけに否定をする彼の姿を見て、心の中でほっと一息吐く。
しかし、喜んではいられない。これでまた手がかりがなくなった。まさにふりだしにもどる、だ。
「じゃあ…」
半ばやけになり、ああでもない、こうでもないと思考を巡らせながら私は口を開く。
ライアンはそれに被せるように――何か大きな覚悟を決めたかのように大きく息を吸い、唸るように一気に言葉を吐き出した。
「自分のマネージャーのことを好きになった。だからこのまま仕事を続けるわけにはいかない。できない。そう思った」
『人は驚きすぎると言葉を失う』
約1年前、私が身をもって体感した現象。それを、私はぼんやりと思い出していた。
(いま、なんて…)
彼の思いがけない発言に動揺する――が、暫くすると自分の中で、『どうせいつもの冗談だろう』という考えが浮かぶ。
きっとそこに、深い理由も意味も無い。
うっかり本気で答えようものなら「なーに本気にしてんの?」と憎たらしい笑顔で返してくるに違いない。
危ないところだった。その手には乗らない。自分にそう言い聞かせながら、
「じょうだん――」
言わないで下さい、と続けようとするも、再び被せるようにかけられたライアンの言葉に遮られる。
「残念ながら今日の俺は本気だぜ、ちゃん」
毅然とした態度で紡がれたその言葉に、からかいの色など微塵も見られない。
(ああ、この人は本気なんだ。)
否、本当は、本気なのは痛いほどよくわかっていた。しかし、私は彼の言葉を上手く受け止めることができずにいた。
それは、何よりも望んでいた言葉のはずなのに。
「…最初は、ちょっと真面目すぎて、正直こえーなって思ってた」
さっきと立場が逆転し、言葉を失い黙り込む私を見つめながら、ライアンは実に穏やかな表情でぽつりぽつりと語り始める。
私は相変わらず黙ったまま、彼の言葉に耳を傾けた。
「早くあれしろこれしろって煩いし、ちょーっと遅刻したらやる気あんのかって怒られるしさぁ。…でも、全部俺のために、必死でやってくれてるんだってのはわかってた。頼りに、してたよ」
じわりと視界が霞む。
ライアンの話を聞きながら、私はそれに自分の記憶を重ねるように、最初に会った日から今までの間に起こった様々な出来事を思い出していた。
「それで…ほら、階段んとこで2人で話したことあったじゃん?」
彼の問いかけに、伏せていた顔を上げる。私は何も言わず、ただゆっくりと首を縦に振り答える。
「あん時さ、初めて『隣で震えるこの子に、俺も何かしてあげたい』って、もう我ながらびっくりするくらい柄にも無いこと思っちゃって。いや、笑っちゃうわ~。…でも、俺達こういう関係だし?何より、素直に気持ちを伝えても『公私混同はいけません!』ってちゃんならカタいこと言いそうだと思ったし」
ライアンは話を中断し、ふふっ、と短い笑い声を漏らす。
それに釣られるように、私も少しだけ表情を緩めた。
「俺さ、自分の気持ちに気づかないふりをしてた。必死に隠してきた」
ちゃんを困らせたくなかったし、とライアンは続ける。
私は彼のその言葉に、大きな衝撃を受けた。
まさか、彼も自分と同じことをしていたとは。
私の頭の中は驚きの感情に支配される。
私が知る限りでは、ライアンは普段思っていることをは深く考えるよりも先に何でも口にする傾向にある。
それによりトラブルに発展しそうになったことすらあるくらいだ。
そんな彼が感情を必死で隠し通して来た。しかも、それが自分への想いだったとは。
「でも…昨日、ちゃんが倒れたって連絡受けたとき、頭ん中真っ白になって。なんで自分が一緒にいてあげられなかったのか、何で自分は何もしてあげられなかったのか、一晩ずっと考えてた。ま、答えは簡単なんだけどな」
そう言って、ライアンは困り果てたように、曖昧に笑う。
「…仕事、ですから」
私が掠れる声で答えると「そのとおりだ。さすがちゃん」と言いながら、大袈裟にパチパチと手を叩いて見せた。
「でも、俺なりに昨日一晩色々と考えた結果、気づいたんだ。やっぱり自分は多分この子――ちゃんを独り占めしたいんだなって。仕事上のパートナーじゃなくて、ひとりの男として。…なんか自分で言ってて恥ずかしいんだけどぉ」
照れたように目尻を下げると、ライアンは私の髪に手を伸ばし、そっと触れ、指を静かに私の髪に滑らせる。
不思議な心地よさに目を閉じると、やがて指は名残惜しそうに離れていった。
「こんな状態じゃあ仕事にならない。もう、限界だ」
少しだけ震えたライアンの声に、私は再び眼を開く。
私は耐え切れず、強く服の裾を握り、静かに言葉の続きを待った。
「だから、俺、契約切るよ。2人の関係を壊さないために。…諦めるために」
「そんな、」
私は咄嗟にそう零すも、言葉が続かない。まるで見えない手で首元を締め付けられているかのようだ。
私が言葉を詰まらせているのを尻目に、ライアンは続ける。
「明後日の夕方、社長と面談することになってる。そこで話そうと思ってる」
顔から、指先から、足先からサッと血の気が引いて行くのがわかる。
(何か、言わなければ)
しかし口を開いても出てくるのは声にならない息だけだった。
そのとき、バイブ音が静かな病室に響く。
ライアンは服のポケットから携帯電話を取り出し、画面を見つめ顔を顰める。
「やべ、」
ばつが悪そうに小さくつぶやき、ライアンは電話に出る。
私は何も考えることも何も言うこともできず、ただその姿をぼんやりと眺めていた。
「ごめん、部長から呼び出し食らった。俺行くわ」
慌ただしくてごめん、と断りながら、ライアンは席を立つ。
ドアの前で一度こちらを振り返るが、今の私にはもう彼を直視することすらできず、とっさに目を伏せた。
静かな音を立ててドアが閉まる。
たった一枚のドア。
しかし、今の私にとっては、彼と自分との間に存在する、決して壊すことのできない、とてつもなく厚い壁のように感じられた。