そういえば、彼女の名前をまだ知らない。
イワンが気付いたのは打合せを終え、来訪者受付にビジターカードを返却しに行った時だった。
一言お礼を言って帰ろうと思ったのだが、そこにカードを発行してくれた彼女は居なかった。代わりに座っている女性社員に彼女の所在を聞こうとしても名前がわからない。更に見た目の特徴を伝えようにも、上手く表現できる自信が無かった為、イワンはそのまま受付を後にした。
たった2回。しかもそのどちらとも偶然遭遇し、短時間コミュニケーションを取っただけの関係なので名前を知らないのは当たり前と言えば当たり前であり、今後知るときが来るのかどうかも今のところはわからない。
会う度にどこか懐かしかったり奇妙だったり、引っ掛かりを残していく彼女の事が何となく気になる。
他人以上知人ギリギリ未満のような関係の彼女にまた偶然会える日は来るのだろうか。イワンは頭の片隅で考える。
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社員証を忘れた日以降もこれまでと変わらずイワンは週に何度か出社していたが、変わった事と言えば、エントランスを通る度に来訪者受付を遠目で確認するのが新たな習慣になりつつある事だろう。
彼女は受付に居たり居なかったり、忙しそうに来客者の対応をしていたり暇そうに欠伸をしていたり、状況は様々だった。しかしイワンはあくまでもそれを遠目で見て通り過ぎるだけで、ふたりが接触をすることは一切無い。
同じ会社に出入りする者同士であっても、必要最低限の人々としか関わる事が無いのと同様のことであり、それに対して残念だとか悔しいだとか思うわけでもなく、イワンは現状をわりとすんなりと飲み込んで、「それはそうだろうな」と思うに留まっていた。
しかし、その時は一月ほど後、何の前触れも無く訪れる。
いつもと同じように出社したイワンは昼過ぎには書類仕事を終え、会社を後にしトレーニングセンターに寄って帰ろうとしている所だった。
同じくあの日以降習慣になっている忘れ物チェックを入念にしていると、ヒーロー事業部の社員から呼び止められ、後日予定していた会議を前倒しで行うことになったのでこの後出席できないかと問われる。かなり急なことではあったが、特に急ぎの予定も無かったため、イワンは承諾し、1時間後に予定されている会議に出る事に決めた。
そして時間までどこかでブログでも書こうかと考え、社内にあるコーヒーショップへと向かったのだ。けれども生憎店内は遅めの休憩を取る社員たちで混みあっていた。
仕方がない。席が無いのであれば飲み物だけ買って帰り、自分のデスクで時間を潰そう。
考えを変え、注文したほうじ茶ラテを手に店から出ようとした時。
「あれ?イワン?」という声が耳に飛び込んできたことで、イワンは驚きのあまり危うくカップを手から落としそうになる。
「わー、やっぱそうだ。久しぶりだね。あれ、そうでもない?」
声の主を探して辺りを見渡し、イワンは目を見開く。入口近くのソファ席に座り手を振る女性。
見間違いではない。声の主は、まさしく“彼女”だった。
「あっ……こんにちは?」
思えば、彼女と会う時の自分は決まっていつも驚いている。苦い気持ちを奥歯でかみ砕き、イワンがぺこりと頭を下げると彼女は「うん。こんにちはー」と間延びした声で返した。
「もしかして席、探してる?ここ座りなよ」
言って、彼女は向かい側の空いている席を指差す。
「……いいんですか?」
それはイワンにとって、願ってもない申し出だった。
席を確保できたことだけでなく、その席を勧めてくれたのが彼女であるなんて。
おずおずと確認すると、彼女はテーブルに置いていたトレーを自分の方へ引き寄せながら言う。
「もちろん。相席でよければ。私はもうすぐ休憩終わるし」
ありがたい。素直に彼女の好意を受け取り、勧められるがまま、イワンは彼女の向かいに腰を下ろし、彼女が作ってくれたスペースにカップを置く。先程より鼓動は落ち着いてきたものの、やはりいつもより心拍数は高い気がしていた。
「……ところで、イワンも休憩?」
イワンが席に着き、カップに口をつけた瞬間だった。テーブルに頬杖をつきながら彼女は何の気なしに尋ねた。
ああ、やはりそうだ。
わかりきっていたことではあるが、先程耳にした言葉は幻聴でも聞き間違いでもなかったことを改めて確信し、イワンは軽く狼狽える。
そう、彼女は確かに呼んでいる。他でも無く、自分の名前を。
「あ、あの、名前……」
イワンが恐る恐る聞く。それに対し、彼女は一瞬はっとした表情を浮かべた。そして、
「あっ、ごめんごめん。こないだ書類で見た時に覚えちゃって」とややばつが悪そうに微笑んだ。
「個人情報だもんね。普段はちゃんと守ってるよ?コンプライアンスとかうるさいじゃんこの世の中。私もまだクビになりたくないし。もしかして、嫌だったかな?」
「……いえ、僕は全然」
そこには裏も表も無いのだろう。あっけらかんと語る彼女にイワンは首を横に振る。
それを見て、彼女は「そう?よかった」と笑った。
この会社の中でイワンの本名を知る者はごく限られている。逆に折紙サイクロンというヒーロー名はほぼ全員が知っており、仕事中もそっちの名前で呼ばれる方が圧倒的に多い。
社内だけでなく、同僚である他のヒーロー達も同様だ。皆イワンのプライベートな面は知らないし、イワンも他のヒーローの私生活についてはあまり知らない。偶にトレーニングの合間など、ちょっとした雑談をすることはあるが。
だから、彼女に本当の名前で呼ばれるのは少しくすぐったい感じがした。
暫く押し黙ってそんなことを考えていたが、イワンはビジターカードの件のお礼を言おうとしていたことをふと思い出し、口を開こうとする。
が、行動に出るのは、彼女の方がわずかに早かった。
「ねえねえ、イワン。連絡先交換しない?今度改めてこないだのお礼したいし」
「へ?」
お礼。
今まさに自分が告げようとした単語が彼女の口から出て来たことに驚き、イワンは硬直する。
その様子を見て「ダメ?」とやや不安そうな声色で彼女が言った。
「え、いや…ダメとかではなく。だって、お礼をすべきなのは僕の方ですよね?」
「ん?私、なんかしたっけ?」
「ほら、この間。社員証を忘れた時助けてくれたから」
イワンが言うと、彼女は「あー!」と声を上げる。それから
「だからー、あれは仕事だからお礼されるような事じゃないってば」と言って、太陽みたいに笑った。
前回会った時は仕事中ということもあってかやや大人びた印象を受けたが、恐らくはこちらが素の彼女なのだろう。イワンは思った。
「でも、それを言ったら僕もあなたに何もしてないですよね?」
「したよー。前に指輪を探すの手伝ってくれたじゃん」
「いえ、あれは厳密に言うとあなたを助けたんじゃなく……」
何故だかむきになってしまい、反論しようとしたところで彼女は会話を遮る様に、イワンの目の前に手を翳す。どうやら、彼女なりの“ストップ”という合図らしかった。
「もー、私もう行かなきゃいけないから。とりあえず承諾してくれるなら早く電話出して?話の続きはまた今度会った時聞くから」
「……。……はい」
まさに有無を言わせぬ雰囲気だった。
翳していた手をそのままくるりと上に向け、イワンの前に差し出す彼女に言われるがまま、イワンは自分の連絡先が表示された電話を乗せる。
もしかしなくとも、自分は今かなり強引に押し切られた気がする。
どこからともなく急激に襲いくる疲労感に包まれながら、彼女が手慣れた様子で登録するのを、イワンはただ茫然と眺めるしかなかった。
「……はい。オッケー。私の連絡先入れといたよ」
疲労感のせいでイワンの体感的には長く感じられたが、ものの十数秒で登録は終わり、彼女はイワンに電話を返却する。
「ありがとうございます」
「じゃ、また連絡するから」
バイバイ!と手を振り、彼女はトレーを持って返却口へと向かって行く。
先程太陽みたいな笑顔を見せたと思ったが、今はまるで嵐が去ったようだなとイワンは内心で苦笑した。
小さくなる後ろ姿を見送り、イワンは自分の手元に戻ってきた電話の画面を改めて見る。
メッセージアプリの画面の一番上。
初めて会った時、彼女が“嫌い”と言っていたはずの花の写真がアイコンになっている。
その横に表示された名前を見て、イワンは腹の底からじんわりと暖かくなるような不思議な感覚を覚えた。
(……さんっていうのか)
やっと知れた彼女の名前。連絡先を知る事で、彼女と自分を繋ぐのが偶然だけでなくなった事よりも名前を知れた方が、長い時間引っ掛かっていた分、今のイワンにとっては嬉しく感じるのだった。
、。心の中で繰り返す。そうしているうちに、イワンはまた例の不思議な感覚に包まれる。
(この名前、前にどこかで見たような……)
画面を見つめたまま、イワンは首を傾げる。
会社の知り合い。アカデミー時代の同級生や在校生。エレメンタリースクール時代の……は、さすがにほとんど覚えていない。さほど交友関係が広いとは言えないイワンが思いつく限りのコミュニティを挙げてみるが、どれもしっくりこなかった。
やはり気のせいであろう。それに、と繋がれたのだから今後また何かがわかるかもしれない。
普段つい悪い方向に物事を考えがちなのに、珍しく前向きな考えをしている自分に気付いて少し驚きながら、イワンは氷が溶けて薄くなったほうじ茶ラテを飲み干す。