君を見つけてしまったから

#4


からの連絡はその日のうちに来た。
イワンが自宅に帰り一息ついていると、改めてよろしくね、という簡単な挨拶に続き、イワンの都合が良い日を尋ねるメッセージが送られてくる。
本来知人とのメッセージのやりとりはもっと気軽に行って良い物なのであろうが、イワンはあまりそういったことに馴染みがないタイプということもあり、慎重に言葉を選びながら返信をする。
たまたま同じ会社に勤める者同士とは言え、つい先日まで全く接点のない他人同士だったのに。そう考えると少し可笑しく感じられる。
の「学生だったらきっと土日は忙しいでしょ?だから仕事終わりにちょっとお茶でもどうかな」というイワンを気遣った提案に、実は学生でもインターンでもなく自分は会社所属のヒーローなのでいつでも構わないと事実を告げるわけにもいかず、なるべく不審に思われないよう「お願いします」と簡素な返信をして、その後数回にわたるメッセージのやり取りを経て約束を取り付けた。
開けたままにしていた窓からぬるい風が入って来る。彼女と初めて会った時の、頬を包む空気がまだ冷たかった頃が、遠い昔の事のように思えた。

そして連絡先を交換してから3日後の夜。
イワンがいつもより落ち着かない気分を携えて会社での仕事を何とか終え、に指定された会社近くのカフェに入る。すると、入店時に鳴ったベルの音にすぐに気づいた彼女が、柱の前のテーブル席から「こっちこっち」と手招きをした。
「場所、すぐにわかった?」
「はい。前にも来たことがあるので」
の向かい側に座り、手渡されたメニューを見ながらイワンは答える。
会社から数百メートルほどの所にあるこのカフェは、定番のコーヒーや軽食に加え、この地域には珍しく日本茶を多く取り揃えている。その為、日本の文化を好むイワンは仕事の合間などに何度か来たことがあったのだ。
暫くしてやって来た気取った感じの店員に「緑茶を」と注文し顔を上げると、はにやにやと楽しげに微笑んでいた。
「あの、何か……?」
笑われるような事をしただろうか。眉をひそめながらイワンが問う。その様子を見ては「ごめん」と一言断ってから続けた。
「いや。渋いなと思って」
「え」
の言葉にイワンは言葉を詰まらせる。渋い。それは貶されているのか。少なくとも、褒められてはいない気がするが。イワンが釈然としない考えを脳内で捏ね繰り回している事に気付いていないのであろう。は言葉の割りに特に悪びれた様子もなく、「私もあとで同じの頼もう」と呟いていた。

それから、軽く食事をつまみながらふたりは色々な事を話した。
好きな食べ物の事、まだ6月に入ったばかりだというのに暑すぎるという事、そしての仕事のこと。
昨年秋頃に入社して以降総務部に所属し、日によって受付業務やその他の雑務をこなしているというは驚くべきことに、イワンの事を以前から認識していたそうだ。
「受付で座ってる時にさ、通るわけよ。ウチって一応お堅い金融会社なのに、やたら若いスカジャンを着た青年がさ。そんなの気になるに決まってるじゃん?」
「まあ……言われてみれば。そうですよね」
「だから公園でイワンを見た時はびっくりしたなあ。『あの子だ!』って」
職業柄、イワンは不特定多数の人から注目されることに慣れている。のはあくまでも仕事中に限った話で、実際イワン・カレリンとして生活している時には寧ろその逆である。ひそやかに、つつましく。あまり目立たないようにして生きて来たはずだったのだが、ファッションについては自分の好みであるとは言え、もう少し留意すべきだったかと反省をした。今更後悔しても遅いのだが。
「話してみたら見た目通りのいい子だったよ」
「……ありがとうございます」
今度は一応褒められたらしい。イワンが礼を言うと、は「どういたしまして?」と笑った。

そして話題はイワンがやや恐れていた事、約束を取り決めてからずっと落ち着かない気持ちで居た原因――イワンの仕事についての話へと移っていく。
学生。ヒーロー事業部に出入りするインターン。
ほぼ彼女によって作り上げられた自分の偽りの設定を頭の中で確認しつつ、の質問に慎重に答えていた、その時だった。
「イワンは折紙サイクロンと知り合いなの?」
「はっ!?」
の口から飛び出した名称に、イワンはぴくりと肩を震わせる。仕事の話題が出た時から腹は括ってはいたが、いざ直面すると焦りを隠せない。
匿名で活動をするヒーローである以上、イワン・カレリン=折紙サイクロンという事実は自分の家族と母校の関係者、会社のごくごく一部の限られた人間のみが知る言わばトップシークレットだ。仮に、ひとりに知られたところですぐに何か困ったことが起きるというわけではないし、彼女の事を信用していないわけではないのだが、念には念を入れるべきだとイワンは考えている。
だからこそ、今の反応はまずかったか。ちらりとの方を見るが、彼女は幸か不幸か、特に気にする様子も無く続けた。
「だって社員じゃないとは言え、ヒーロー事業部に出入りしてるんでしょ。だから会う事もあんのかなって思っただけ」
そう言って、はグラスの底に沈む氷をストローでつつく。
その様子を眺めながら、イワンは言葉を選んで答える。
「……会った事は、あります」
「やっぱそうなんだ。いいなー」
ぱっと表情を明るくし、きらきらと目を輝かせる。その姿は年上の女性に対して少し失礼だが、年端もいかない少女のようだとイワンは思う。
そして、『いいなー』という彼女の言葉。それは恐らく、自分の勘違いでなければ、折紙サイクロンの事をかなり好意的に思ってくれている証拠だろう。好意まで寄せていなくとも、無関心ではないはず。
目立つのが得意ではないとは言え、イワンの中にも多少の承認欲求や自己顕示欲は存在する。だから、彼女が自分のもうひとつの姿である“彼”を好意的に思っているのかもしれないという事実は、素直に嬉しく思った。
さんは、その……彼のファン、なんですか?」
自分で聞くのは烏滸がましい質問だった。しかし、彼女の反応を見ていると、自惚れてみるのも良いのかも。連絡先を交換した日と同じく、珍しく前向きな気持ちで訊いてみる。
だが、これまでイワンが思い描いていた予想や淡い期待のようなものに反しての表情に陰りが見えたのを、イワンは見逃さなかった。
「えー……っと。ファンかと言われたら……どうなんだろう。厳密に言うとちょっと違うかな」
比較的はっきりとした物言いをする印象が今の所強いが珍しく言葉を濁す。彼女の違うという回答よりも、今のイワンはどちらかというとそちらの方が気になった。
「そう、ですか」
それまでの様子と明らかに違う喋り方をする彼女への疑問と、『違う』という返答。時間差で、それらふたつがイワンに重くのしかかる。
珍しく上向きだった気分も、すっかりいつも通りの水準まで下がっていた。が、次にが告げた予想もしない一言に、イワンは耳を疑う事となる。

「うん。だって今の私は、イワンのファンなので」

「……はい……?」
イワンの、ファン。今、自分の目の前で彼女は確かにそう言った。
仕事の成績も思うように振るわず、他のヒーロー達と比べると折紙サイクロンはとても人気があるとは言えない。偶にブログにコメントを貰ったり、子供から可愛らしいファンレターを貰う事はあるが、とても頻繁であるとは言い難いことだった。
それと同様、いや、それ以下とも言えるが、イワン・カレリンとしての約20年間の人生に於いても俗に言う華やかな出来事が起こったことなど、ざっと思い返す限りでは無かった。
故に、彼女の言葉をすんなりと飲み込む事が出来ないでいる。
飲み込むどころか、口には入れてみたものの、咀嚼することすらかなわない。そんな状況に陥る一方で、は構わず続けた。
「だってさー、指輪探してくれた時。普通あんな状況で『手伝います』なんて言える?すごいよ。何人も何人も私たちの事白い目で見ながら通り過ぎて行ったのに」
「だって、それは……さんも同じでは?」
あの時、先に通りかかっていたからというのもあるが、男性の元に歩み寄って手伝うと申し出たのはの方だった。イワンは偶々あの時より遅く公園に来た為、後から申し出た。恐らく自分の性格上、が後から来ていたとしても男性の手伝いを申し出てはいただろうけれども。兎に角、どちらが『すごい』というわけではない。が、彼女はあくまでも引き下がる気配はない。
「ううん。とにかくイワンはすごい。だから私はあの日以来あなたのファンになりました」
「……ありがとうございます」
ここまでストレートに褒められたのはいつぶりだろう。悪くはないが、落ち着かない。満足気に笑う彼女を前に、テーブルの下で組んだ指を弄びながら、イワンは背筋を伸ばした。

「ところで、さんはこの間みたいな事、よくするんですか?」
引き続きイワンの心を満たす浮ついた気持ちを少しでも落ち着けたくて、イワンは無理矢理話題を変える。
追加で注文した緑茶を啜りながら、はきょとんとした表情をした。
「え?ビジターの発行?偶にするよ?」
「いえ、そうでなく。ほら、公園の時みたいな……人助けのような事」
イワンの言葉に漸くピンときた様子で、は答える。
「ああ。うーん、そんなに積極的にはしてるつもりはないけど。でも、困ってる人を見ると声は掛けちゃうかな」
照れくさそうに語るは「へへへ」と声を出して笑う。
それから、
「ま、これは昔好きだった人から一方的に受けた影響なんだけどね」
と続け、何気ないそぶりでゆっくりと窓の外に目を向けた。その時のの表情はイワンの座っている席からはよくは見えなかったが、表情よりも今は更に気になる事があった。

(好きだった人……)

イワンが彼女の言葉の中で気になった単語を頭の中で繰り返す。
そして、に倣ってイワンも窓の外を見た。
金曜の夜。待ちに待った週末を前に、通りを行き交う人々の足取りは軽かった。
この世には、星の数ほどの人間が存在する。一生のうちで運よくすれ違う事はあっても、今の自分とのように交わる事が出来る人はごくごく限られている。
恐らく、多分、きっと、今回は運よく交わる事が出来たの好きだった人もイワンにとっては一生交わる事がない存在。そう考えると何故だか気になって仕方が無くなった。
これは、自分が聞いても良い事なのだろうか。イワンは逡巡する。場合によっては嫌われてしまう可能性もある。しかし、もともと知人に毛が生えたような親密度なのだから、いくら彼女曰く『ファン』とは言え、もともと落ちるほどの好感度なんて存在しない。かもしれない。
そう結論を出し、相変わらず外の通りを目的も無く眺めながら、
さんが好きだった人って……」どんな人だったんですか。
と問おうとした瞬間だった。イワンの左腕に付けているPDAから呼び出し音が響く。イワンにとっては毎日のように聞くすっかり馴染みの深い音なのだが、一般市民のにとってはそうではない。
少し驚いた様子で目をぱちぱちさせているに「ちょっとすみません、電話がかかってきたみたいで」と苦しい言い訳をし、イワンは慌ただしくカフェの外に出てPDAを操作した。
「ウエストシルバーで強盗事件よ。犯人は車で逃走中。急いで現場に向かって頂戴」
「……はい」
アニエスからの指示に返事をして、イワンはその場で頭を抱える。
いつ何時呼び出しがあるかはわからないのがヒーローという仕事なのだが、よりにもよってこのタイミングか。
しかし今は悩んでいても仕方がないと自分を奮い立たせ、イワンはトランスポーターを店から3ブロックほど離れた通りに呼び、店内へと戻る。
戻ってきたのを見て不安そうに「大丈夫?」と尋ねるに、イワンの胸がちくりと痛んだ。
「あ、あの……さん。本当に申し訳ないんですけど、僕急用が出来て。あの…、えっと、」
しどろもどろになりながらイワンが財布から自分が飲み食いした分のお金を取り出そうとすると、手首に自分のではない熱が触れる。え、とイワンがの方を見ると、彼女はイワンの手を制止するように掴み、「それは、会社絡みの案件?」と真剣な目つきで尋ねた。
そんなはずはない。
そんなはずはあるわけないのだが、全てを見透かされているような気すらしてきて、イワンは「はい」と弱弱しく答えると、は力を抜くようにぎゅっと掴んでいたイワンの手首を放し、口元を緩めた。
「いいよいいよ、早く行きな。お金も大丈夫。お礼したかっただけだし。それに、この埋め合わせはいつかまたしてくれるんでしょ?」
いたずらっぽく微笑んで、は言う。その姿に、イワンの心臓が軽く跳ねた。
「あ、はい」
「がんばれ、イワン!」
そう言って、は大袈裟にぶんぶんと手を振って見せる。
こんな風に誰かに仕事へ送り出してもらうのはイワンにとっては初めての事であり、その擽ったさに自然と笑顔になっているのに気づく。
「……がんばります」
強く頷き、イワンは店を後にする。彼女が触れていた手首が、まだほんのりと熱を持っている気がした。

その一方で、トランスポーターへ向かうイワンの心を満たす感情が少しずつ変化し始めている事には、この時彼まだ気付いていない。