君を見つけてしまったから

#7


人間の脳は、新しい記憶と古い記憶では保管する場所が異なるという話をイワンは昔聞いたことがあった。
学生の頃、あまり真面目に受けているわけではなかった化学だか生物だかの授業の合間の雑談で教師がそんな話をしていた気がする。新しい記憶が時間の経過と共に古い記憶に変わると保管場所を移され、ファイリングされる。古い記憶の保管庫で永久に脳内に保存されているものの、生きている限り次々に記憶は蓄積されていく。だからより強烈で鮮明な記憶に追いやられ、そのうち記憶したことすら忘れてしまうファイルというのがどうしても出てくるのだ。しかし忘れてしまったとしても自分の中には確かに“在る”ので、何かしらのきっかけによりふと思い出したり頭を過ぎったりする事があるらしい。覚えていないけど、どこか懐かしいと感じる光景などがこれにあたる。
自分の体の事ながら、なかなか興味深い話だと思った。そもそもこれ自体が隅に追いやられ、何かしらのきっかけにより掘り起こされてきた古い記憶に分類される物なので、多少の記憶違いである可能性は否めないのだが。

11月も中旬となると、流石に朝晩の寒さが一層厳しく感じられるようになる。イワンはまだいいか、と自分に言い訳をしてずるずると後回しにしていた衣替えを先週やっと完了させ、先月より一枚多く着込むようになった。街中の街路樹は紅葉のピークと言った具合で、赤や黄色が風に舞いどこか華やかでいて寂し気だ。
そして、変わったのは見てくれや季節だけでは無い。イワンは先日起こったある事件――イワンの中の強烈な記憶に関することだ――をきっかけに、学生の頃から長い間抱え続けていた蟠りを少しだけ解消する事が出来た。着るものや紅葉みたいに解り易い物でもないし、問題の全てが完全に解決したわけでもない。それでも少しだけ、ほんの少しだけではあるが自分のヒーローとしての自信を持てるようになった気がしていた。 けれども、大きく変わった事もあれば変わらない事もある。それは他でも無く、の事だった。
先日のデートと呼んで良いのかよくわからないデートで彼女が伝えようとした『言わなくてはならない事』を、イワンは未だに訊けずに居た。
に関しては、その他にも気になる事が沢山ある。『言わなくてはならない事』を言わない代わりにした質問もその一つだ。
何故彼女は敢えて初めて会った場所を今更問いかけたのだろう。もしかすると、今はまだ思い出せていないだけで、それ以前に会ったことがあるのかもしれない。と、あれ以来イワンは考えるようになっていた。
思い返せば初めてあった時からと一緒に居ると、自分の中の何か古い記憶を呼び覚まされる感覚に陥る事が幾度かあった。
その感覚の正体が何なのか、思い出せないけど覚えている記憶が本当にあるのか、それを思い出すトリガーになる物は何なのか、深読みから来る単なる勘違いなのか、全部未だにわからない。
そしてが言う“また”は、果たしていつ来るのだろうか。良いきっかけもタイミングも無いままただ時だけが過ぎ、永遠に来ないような気さえしていた。

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「あ。の『お気に入り』じゃん」
社内のカフェでいつものように打合せまでの時間を潰していると、イワンの座るテーブル席の目の前で、見知らぬ女性が立ち止まった。
「……え?」
驚くイワンに構うことなく女性は切れ長の目から繰り出す視線をイワンの頭からつま先へと這わす。
それから「ここ、空いてる?」とイワンの前の席を指し、躊躇いがちに頷くのとほぼ同時に滑るように彼女は腰掛けた。
長い髪をひとつに束ねた細身の彼女の事をイワンは知らないが、少なくとも彼女はイワンの事を知っている様子だ。
そしての名前が出たという事は、恐らく彼女の事も。誰にでも出来そうな簡単な推理ごっこをしていると、“リズ”と自ら名乗った女性はの同僚だと簡単に自己紹介をし、コーヒーのカップに口をつけた。
「聞いたよ。あんたヒーロー事業部のインターンなんだってね。若いのにご苦労なこったわ」
リズが茶化すように言うのを聞きながら、そういえばそんな設定でとの関係は始まったのだということが思い出され、イワンは内心苦笑した。
と出会ってから早いもので、気が付けば半年以上が経っている。偶然に偶然を重ねた結果の上に成り立っている関係とも言えそうだが、イワンが記憶している中での初めて会った時からは想像しなかったほど、今のイワンの中での存在は大きく変わっていた。 興味が憧れになり、今は近づきたいのに遠ざかりたい、そんな不思議な気持ちにさせる存在に。それを何と呼ぶのか、イワンには心当たりが無いわけでは無かったが、今はまだ様子見をしている段階だ。
「将来は折紙サイクロンのマネージメントとか?それともメカニック?」
リズの視線は相も変わらずイワンを捉えたままだ。別にいけないことをしているわけではないのに、酷く居心地が悪いとイワンは思った。
「……まあ、そんなところです」
目を泳がせながら答えると、リズは「ふぅん」とため息に近い声を漏らす。そして、
、色々聞いてくるでしょ、折紙サイクロンのこと。あの子折紙の事大好きだからねぇ。最近はあんま言わないけど」
と続け、テーブルに頬杖をつく。彼女は何気ない風に言っていたが、イワンにとっては寝耳に水だった。
確かにの口から折紙サイクロンの話題は出た事がある。しかしそれは出会ってまだ間もない頃に一度だけだったはずだ。それに、その時イワンが興味本位でファンなのかと尋ねてみた際、「違う」と答えられた事は、少し苦い思い出として鮮明に記憶されている。
色々な意味で驚きを隠せず、イワンが「そう、なんですか?」と尋ねれば、リズは意外と言った具合に目を開き、「あれ、知らないの?」と答えた。

「じゃああの子が『昔、多分折紙サイクロンに救われた』っていう話も聞いたことない?」
「は…っ……!?」

重い物で思い切り後頭部を殴られたような衝撃だった。
いっそ本当に殴って貰った方が良かったかもしれない、とも思った。イワンは鼓動が急激に早くなるのを感じた。
「あっ……あのっ、あの!『昔』っていつくらいの事ですか?あと『多分』って……?」 当然のことながら、イワンには全く記憶にない事だった。テーブルに身を乗り出さんとする勢いでリズに問い掛ける。
彼女の発言には気になるワードが多すぎる。対してイワンの頭の情報処理スピードは全く追いついていない。キャパオーバーという状況は、こういうことを指すのだろうとイワンは頭の片隅で考えていた。
「さーね?私も全部知ってるわけじゃないから。『昔』って言っても彼ってわりと最近出て来たヒーローでしょ。だからデビューしたての頃とかじゃない?『多分』ってのはわかんないけど、そう言ってたわ」
必死の形相で矢継ぎ早に尋ねるイワンに「まあまあ」と手を翳しつつ、リズは淡々とひとつひとつに答えをくれた。
それにより冷静さを取り戻したイワンは身を引き、「そう、ですか」と震える声で呟いた。

リズの言う通り、イワンはまだヒーローとしてデビューをして比較的日が浅い方だ。先月デビューしたばかりのバーナビーほどではないにしても、キャリアとしては新人の部類に入る。
いくら犯罪や事故の多いシュテルンビルトで昼夜問わず出動していると言えど、それぞれの内容はなんとなく記憶している物である。それは情けない事に、今までのイワンがあまり直接人命救助をするような活躍をしてこなかったからこそ自信を持って言えるのだが。

(あらゆることの辻褄が合わない……)

イワンが人目をはばからず頭を抱えそうになっていると、「ねーなんの話してんの?」と聞き覚えのある声が割り入ってきた。
「いっ!?」
噂をすれば。突然姿を現したに驚いてイワンが飛び上がると、それを尻目にリズが「この子めっちゃ面白いねー、」と呑気な声で言っていた。
「リズ、からかわないでくれる?」
同じく休憩中らしいはカップとホットサンドの乗ったトレーを持ちながら、やや不機嫌そうに頬を軽く膨らませた。
「はいはーい。じゃあ私はお邪魔だろうしもう行くわ。バイバイ」
とイワンの間に視線を送り、リズは空になっているであろうカップを振りながらに席を譲るようにして去る。
は暫くリズの背中に鋭利な視線を送っていたが、短く溜息を吐くとリズが譲った席に座った。
「……何を話されたかわかんないけど、気にしないで。ほんとに気にしないで。ね?」
が語気を強めて言う。
常に物言いがハッキリしているだが、今のイワンには、真っ直ぐでありながらもどこか動揺を隠せていない気がしていた。
しかし、動揺をしているのはイワンも同じである。
いくら考えたところで繋がらない答え。嵌らないパズルのピース。何もかもが手詰まりで、混乱していた。だが、この大きな問題をそのままにしておいて良いとは思えない。思いたくない、とイワンは考えていた。
やはりここは、動くしかない。どんな答えが待っているかはわからない。傷つくのかもしれない。傷つけるのかもしれない。なんともないのかもしれない。折角縁あって積み重ねた関係が、変わってしまうかもしれない。

それでももう、後戻りは出来ないと思った。

「……じゃあ……」
意を決して、イワンが切り出す。カップに口をつけようとしていたは「ん?」と顔を上げた。
「リズさんが言っていた事はもう気にしないので、そろそろこの間の話の続きをして欲しいです」
「……いいよ」
イワンの予想に反し、はカラリと明るく言ってのけた。
「へっ!?」
思わず素っ頓狂な声を上げてしまったことにより、は一転してムッとした表情を浮かべる。
「待って待って。『へっ?』って何?イワンから言ってきたんじゃん」
「いや……なんか、あの、もうちょっと渋られると思ってたというか……」
事実だった。ウエストブロンズの港で彼女が言おうとした時の顔や空気を思い出す。それは今のように穏やかで明るい物ではなく、どこか張り詰めたものだった。だからイワンもそれを問うのに勇気が要った。しかし、今はあの時の面影は全く無い。
狼狽えていると、は飲んでいたカップをコトリと置き、あっけらかんとして言った。
「まあね。私もやっと覚悟が出来たし、確信も持てたから。でもあとちょっとだけ心の準備もしたいから、今週末辺り時間もらえる?また詳細は連絡するよ」
の言葉に、イワンは何も言わず大きく頷く。それを見ては「決まり」と楽し気に言い、いつもと変わらぬ満面の笑みを浮かべるのだった。

「……ところでさあ、イワン。最近なんかいいことあった?」
「え?」
様々な真相を知る機会の約束をどうにか取り付ける事が出来て胸がいっぱいになっている中、が問い掛ける。
イワンが意表を突かれて瞬きを繰り返していると、が続けた。
「いや……こないだ会った時とちょっと雰囲気変わったかなって。私が勝手に思っただけだよ?」

“変わった”。

何でもない事のように、は言う。けれども、少しずつ変化を求め始めたイワンにとってそれはが語ってくれようとする事以外で、今一番欲している言葉だった。
暖かさで胸がいっぱいになる。堪えきれない笑みを零しながら、イワンは「少し、ありました」と答えた。の口元がふっと緩む。
「そっかそっか。今のイワンも良いね」
その微笑みは、彼女と最初に会った季節を思い出させた。