君を見つけてしまったから

#8


息が詰まりそうと言うか、既に詰まっているようだとイワンは思う。
深く息を吸ってみるともれなく肺に入って来る消毒液や薬品の匂い。日常生活に差し支えない程度の動きは出来るようになったものの、まだ時々疼く脚。
すれ違う看護師や医師達はいつ見ても忙しそうに動いており、廊下を歩くだけで罪悪感のようなものを覚える。
すっかり慣れてしまった“此処”での生活もあと数日となったが、イワンは一刻も早く逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。しかし現実問題、逃げ出すわけにはいかないので、こうしてせめてもの抵抗として自分が行ける範囲内での逃亡を謀る。
窒息しそうになりながらどうにかこうにか自販機のあるスペースまでやって来ると、どうやら同じことを考えていたらしい同僚達が「よう、折紙」「調子はどうだい?」「元気そうだな」と笑顔で迎えてくれた。
苦々しい笑顔を返しつつ自販機で買った緑茶を持って彼らが居るテーブルに座ると、同僚のワイルドタイガーとスカイハイ、ロックバイソンは中断していた話(子供の頃に食べていたお菓子の話題らしい)を再開させる。
それに加わるでもなく、ただイワンは短く息を吐き、電話の待ち受け画面を表示する。
新着メッセージも着信も無し。
分かりきっていたことではあるが、それでもぎりぎりと胸を締め付けられるような感じがした。

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に「話をしてもらう」と約束をし、日取りを決めたイワンだったが、その約束は果たされる事はなかった。それどころか、とはあの日以来連絡を取れていない。
イワンは態と約束を反故にしたわけでは無いし、逃げたわけでも無い。
イワンが“シュテルンビルトのヒーローだったから”仕方なかったのだ。

約束をした直後、謎の犯罪組織と凶悪犯罪者による街全体を巻き込む大きな事件が発生した。
イワンを含むヒーロー達は皆苦戦を強いられたものの、どうにか事件は収束し、街に平穏を取り戻す事が出来た。
けれども失ったものは大きい。そのひとつが時間である。
通常の事件や事故ならば、殆どが数時間ほどで片が付く。が、今回の場合、未曾有と呼べる規模の物であり、緊急を要した上にイワンも大きな怪我を負った為、に連絡を取る事が出来なかったのだ。
同僚達の活躍により事態が落ち着き暫くしてから、漸くイワンはとの約束を破ってしまった事に気がついた。
街全体が混乱に陥っていた為、仮に覚えていたとしても話をしている状況では無かったかもしれないが、何も連絡せず過ごしてしまった事に変わりはない。
自分の正体を知らないは、きっと不審に思っているだろう。こんな状況下で安否を気遣う連絡をしないどころか、約束を無断キャンセルするなんて。愛想をつかされても仕方がないと、イワンは思った。
改めて、自分から連絡をしてみようかとも考えた。しかし、何と言えば良いか見当もつかない。そもそも人に嘘を吐くのが得意な性質ではないのに、成り行きとは言えに折紙サイクロンではないと嘘を吐く形になっている現状。そこに更にでっち上げた嘘を重ねる自信なんて、イワンにはなかった。それに、アイデアもなかった。

しかし一方で、イワンがに対して不審に思う点もある。
約束の時間が近くなっても、それを過ぎても、からの連絡が一通も入っていなかったのだ。作戦の中でジャミングシステムを使った影響もあるかと考えられたが、電波状況が通常に戻り、他のメールやメッセージが一気に届いてもからの連絡は事件発生前夜を最後に一切来る事がなかった。
(これはもう、完全に終わったな……)
ほどよく冷めた緑茶を飲み干し、イワンは再び息を吐く。かみ合っているようでどこかかみ合っていない同僚三人の話題は、いつの間にか昔飼った事があるペットへと変わっていた。

「カレリンさん、ここに居たんですね」
突然、背後から呼びかけられ、イワンは振り向く。そこには穏やかな顔つきの看護師が立っていた。
「探しましたよ。病室に居ないから」
「すみません。何か用でしたか?診察、は終わりましたよね?」
完璧に頭に入っているはずの退屈極まりない入院生活のスケジュールを思い浮かべるが、イワンには探されるような理由が思いつかない。思わず怪訝な顔を浮かべると、看護師は首を左右に振りながら「これ、あなた宛てに届いたんです」と大きな紙袋を差し出した。
「え?」
躊躇いながらも受け取り、恐る恐る袋の中身を見る。看護師とのぎこちないやり取りを見ていた三人も雑談を止め、一緒に中を覗き込んできた。
「うっわ、すげえなこりゃ」
「見事だね!」
「ほー」
紙袋の中から出て来たのは、薄い水色の包装紙にくるまれた立派な花束だった。そっと手に取り、イワンは胸に抱えてみる。ほのかに漂う優しい匂いが心地よかった。
しかし、妙だと思う。イワンには花束の見舞いを寄越すような人物に心当たりなど無かったからだ。
「一体誰から……?」
眉をひそめながら尋ねるも、持ってきてくれた看護師も肩をすくめ、「さあ?匿名で届いたので」と答えるのだった。
「匿名?」
「あー安心して。不審物でない事は確認済みですから。あなたの所属会社経由で届いたそうですし」
そう言い残すと、彼女は足早に去って行く。両手の中にあるずっしりとした重さ。謎ばかりの出来事の中、それだけが妙なリアルさを醸し出していた。
「何だーお前も隅に置けない奴だなァ?」
「センスが良いね」
「俺は貰うなら食い物の方が良いけど」
花束を覗き込みながら、同僚たちは好き勝手に言って盛り上がっている。
が、贈られた当事者であるイワンの胸中は相変わらず謎でいっぱいで、それ以上の感情は特に湧いてこなかった。
この病院に入院しているという事は、同僚や仕事、病院の関係者以外だと家族と会社のごく一部の人間、即ち自分が折紙サイクロンだと知っている人物しか居ないはずだ。
その人物の中にわざわざ匿名で、しかも会社を通してこんな立派な花束を贈って来る者が誰なのか、いくら考えてもイワンには解らなかった。
眉間の皺が深くなる。答えの出ない謎解きを頭の中で繰り広げていると、「……オイ。なんか落ちたぞ」とワイルドタイガーが床から何かを拾い上げ、イワンの前に差し出した。 それは花束の包装紙に似た、水色の封筒だった。
「封筒……?」
手に取り、イワンは蛍光灯に翳して見る。花束程ではないが、ずっしりとした重みがある。
寒色なのに春の青空のような暖かみのある地に、かわいらしい花のモチーフがところどころあしらわれている。
表にしたり、裏にしたり。暫く宛名の無い厚い封筒を手の中で弄んでいたが、それは突然、やってきた。

「……あーーーーっ!?」

これをフラッシュバック、と呼ぶのだろうか。脳裏に過ぎる強い光。イワンにとって初めての感覚だった。近くに居た看護師には睨まれ、三人は急に大声を上げたイワンに「なんだなんだ」と不審な視線を送っている。
普段なら常に人目を気にして、注目される事を避けるイワンだが、今はそんなこと等気にする余裕は無い。
忘れた事すら忘れていた古いファイルは、たった今取り出された。
「僕……この人を、知ってます。ずっとずっと前から」