と初めて会った時、薄桃色の花が咲き乱れていた並木道には今はその面影はない。
木々は葉を落とし、時間が止まったように寂しさを漂わせている。
枯葉を踏む乾いた音に混じり、ちらりちらりとイワンの前に舞い降りて来たのは白い雪だった。
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あの日、からの手紙を読み終わった後のイワンは、暫く心ここにあらずといった状態だった。
封筒を見た時点でと自分の関係は思い出していたが、改めて彼女の文字で事実を突きつけられたことと、彼女の自分への気持ちを綴る文を目にしたことで、完全に思考は停止する。
花束を受け取って以降、急に様子がおかしくなったイワンを心配をした同僚達が代わる代わる病室を覗きに来たのだが、イワンは恐らく気付いていない。周りを気に掛ける余裕などある筈がなかった。
今まで抱えて来た全ての謎が解けた嬉しさ。忘れていた事への申し訳なさ。それに加えてが自分に向ける気持ちが、興味、憧れと段階を踏み顕現した、今自分がに向ける気持ちと同等の物であったこと。イワンが忘れている間も、ずっと変わらず自分を見ていてくれたこと。
ひとつの封筒に収められていた膨大すぎる情報と想いを、イワンは退院までの全部の時間をかけて、どうにかこうにか一つずつ受け入れ、自分なりに処理していった。
咀嚼し、飲み込み、ようやく冷静さを取り戻した頃、退院の日がやって来た。
帰ってイワンが真っ先にしたのは、家中の収納を漁る事だった。
1時間ほど探したところ、目的のものは1通だけ出て来た。匿名の花束と共に送られてきた封筒と同じ物。差出人はもちろん、。
本と本の間に挟まってくたくたになっていた封筒を開き、便箋を取り出す。
先日貰ったものに比べると筆跡に幼さは残るが、どことなく面影はある。
変わらず退屈な毎日を過ごしている事やイワンを励ます言葉が並ぶ中、『こっちだと桜が咲く季節は別れの季節。桜は寂しくなっちゃうから私は嫌い』と力強く綴られているのを見つけ、イワンは思わず笑みを零した。
一刻も早く彼女に会いたい。
会って、話がしたい。しなければならない。
片付けをしていて気付かなかったが、外は暗くなり始めている。イワンは少し考えた末、の仕事が終わる頃を見計らって会社の近くでゆっくり話ができそうな場所で待ち伏せをしようと決めた。
初めて会った日、は公園を突っ切り帰路についていたと言っていた気がすると、イワンは頭の片隅で記憶していた。待つなら多分、そこしかない。
もっとうまいやり方があるのかもしれないが、これが今のイワンが思いつく、精一杯にして最高のアイデアだった。
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街頭に照らされる細かな雪はなんだかあの日見た花びらに似ていたが、それとは違い、体や地面に当たっては跡形なく溶けていく。その様がまた景色の寂しさを増長させる。
イワンは数か月前と同じベンチに座り、行き交う人を見る。仕事帰りと思わしき人、犬の散歩をする人、白い息を吐きながらジョギングをする人。はまだ来ない。
言いたい事は沢山ある。しかし何から話そうか。
上手く伝えられるだろうか。というか、そもそも約束をしているわけではないのだから、会える保障はないのだけど。
時間が経つにつれ、どんどんイワンの中に不安は募っていった。
やはり、待ち伏せなんてせず、思い切って連絡をしてみるべきか。もしかしたら気付かないうちに帰っているかもしれない。今日はここは通らず、帰りに何処かへ寄って帰っているのかもしれない。
寒さと緊張と不安とですっかり冷たくなってしまった指先で、縋るようにポケットに入れた電話を取った。
それとほぼ同時だった。
「……イワン?」
今一番聞きたかった声が、イワンの頭上に雪に混じって降り注いだ。
心が跳ねる。慌てて顔を上げる。見間違いでも幻でも無い。そこには忙しなく瞬きを繰り返す、驚いた様子のが立っていた。
「さんっ……!」
「いや、待って待って。何でそんなに泣きそうなのよ?」
声を詰まらせ呼びかけるイワンを見て呆れた様子のも、きっと今の自分と同じくらい泣きそうな顔をしている。イワンは思ったが、ぐっと言葉を飲み込んだ。
話を聞けば、がこの道を通って帰る頻度はそう高い方では無いと言う。
普段は人通りの多く明るい表通りを歩いて帰るのだが、静かに何か考え事をしながら帰りたい時や、近道になるので急いでいる時だけ使うらしく、今日の場合は前者だった、と。それを聞いて偶然を通り越して奇跡に近いレベルの事象を起こしたのではないかとイワンは錯覚したが、既に大きな奇跡はいくつも起きた後だ。
常に最悪の事を想定しながら生きていたが、実際彼女に関することに限定すると、かなりの強運の持ち主なのではないかと思え、少しだけ張り詰めていた気持ちが緩んだ気がした。
「はい、どーぞ」
「ありがとうございます」
が近くの自販機で買ってきてくれた暖かいココアを受け取り、イワンはお礼を言う。
「寒かったでしょ。いつから居たの?」
「1、2時間前ですかね」
「なにそれ。馬鹿じゃん」
さっきと同じ、泣きそうな顔では笑う。それを誤魔化すようにして、ずず、と軽い音を立ててココアを飲んだ。
何でもない仕草。光景。にも拘わらず、ここまで心動かされるのはどうしてだろう。答えはわかっているが、イワンは敢えて考えてみる。そんな意味のない行動に走ってしまうあたり、やはり自分はこの期に及んでも覚悟が出来ていないのではないかと内心苦笑しながら。
「……花束、ありがとうございました」
会社帰りと思わしき通行人が数人、ふたりの前を横切って行った頃、イワンは漸く決心を固め、口を開く。
は「ああ」と何でもない様子で笑い声を漏らし、「迷惑じゃなかった?」と問い掛けた。
「全然。嬉しかったです。それから手紙も……読みました」
「……うん」
「それも、嬉しくて。僕もさんに言いたい事が沢山あります。だから今日はちゃんと言わせて下さい。僕の口から」
ココアの缶を置き、隣に座るの手を取る。人工的な暖かさのおかげで熱を取り戻した指先は、何故かまた震えていた。
しかしそれは自分の手の中にあるのそれも同じだった。視線を手元からの顔へ静かに移す。
薄明りの中でもよくわかる。ふたつの丸い目は、強い光を放ちイワンをまっすぐ見据えていた。
「僕は――」
「……あれ?君たち……」
大きく息を吸って一思いに吐きかけたイワンの言葉を遮ったのは、酷く驚いた様子の男性の声だった。
「……あっ」
「……あ?」
とイワン、ふたりの声が綺麗に重なる。
ベンチの前に佇むスーツ姿の若い男性。くしゃくしゃと頭を掻きながら、ふたりの間に探るような視線を送る。それから何かを確信し、「やっぱりそうだ。僕の事覚えてますか?」と朗らかな声を上げ、距離を縮めた。
「はい。指輪の……ですよね?」
が言うと、男性は大きく頷き、それからいつかと同じく深々と頭を下げた。
「その節は大変お世話になりました」
「いえいえ。お元気そうですね?」
絶望に打ち拉がれていた初対面のときと比べると今の彼の表情は天と地ほども違う。
そこだけ先に春が来たかのように、ぱっと明るい光が差していた。
「おふたりのお陰です」
男性はそう言うと、自信の左手に嵌められた指輪を見せ、無事に件の彼女と結婚した事を語ってくれた。それから、ことあるごとにとイワンの姿を脳裏に思い浮かべていた事も。
饒舌に語る男性を祝福しつつもその勢いにやや引き気味になりつつ応じていると、ここで漸く男性はとイワンの間に流れる“空気”を感じ取ったようで、「すみません、僕お邪魔でしたね?」と申し訳なさそうに引き下がった。
イワンが握ったままになっているの手。男性の目はそれに釘付けだった。
「え。いや……その、これは、」
その熱い視線にイワンは動転する。慌てて手を放そうとしたが、驚くべきことに、がそれを許さなかった。
「はい!実はこれから愛の告白をされるところでした」
先程感じた震えはもうない。
形勢逆転。谷底から引っ張り上げるかのように力強くイワンの手を取るは、心底楽し気に言う。それを見た男性も「そうでしたか。じゃあ、そちらもお幸せに」と穏やかに言い残して去って行ったので、なんだかイワンだけが置き去りにされている気分になった。
「……こんなことある?」
男性の姿が見えなくなって暫くすると、上の空になりかけているイワンに、は愉快でたまらないといった風に言った。
相変わらずイワンの手はしっかりと握られたままである。ふたりの体温が溶けて、どちらのものか判断が付かなくなるほどに。
「とにかく偶然が多すぎるよね、私たちの周りには」
の言葉にイワンは素直に同意する。ふたりが出会ってから――文通をしていた頃からも含めるとその言葉に当てはまるエピソードは驚くほど多く、その通りだと思った。
同時に、その偶然の中に必然はあっただろうかとも考える。
偶々そうなったと思っている事の中にも、なるべくしてなった事が紛れ込んでいるかもしれない。
それは紛れ込んでいれば良いな、というイワンの願望から来る思いだが、答えは神のみぞ知る事。考えるのは楽しいが、考えるだけ無駄だとも思う。
別にあろうがなかろうが、イワンの気持ちには変わりは無いのだから。
「……本当に」
「でもそんな積み重ねがあったから、私はイワンを見つけられたんだけど」
小首を傾げて悪戯っぽく微笑むを前に、イワンは背筋を伸ばす。
そっと、握られた手を解き再び包み返せば、「さあ、思う存分語ってくださいな」とは微かに頬を染めて言った。
「……ずっと、僕の事を見ていてくれてありがとう」
「うん。どういたしまして」
「良かったら、もしさんさえよければ、これからも僕の事を見ていて欲しい、です。一番近くで」
握る手に思わず力がこもる。一息に気持ちを吐き出すと、は周りの物全てを溶かすような笑みを浮かべて言った。
「それは、ファンとして?」
「……いいえ。それ以上、として」
首を左右に振り、イワンは力強く答える。視線の先で、の瞳が揺れるのを捉えた。
唇が何かを告げようと開きかける。しかし、イワンはそれに構わず深く息を吸い、続けた。
「好きです。昔も……今も。さんが、とても」
相変わらず降り続く雪はふたりの周りの音をすべて消し去ってしまったようで、怖いほどに静かだった。
イワンの告げた言葉。そのあと訪れた暫しの沈黙。耳元で鳴る鼓動がうるさいと、イワンは思った。
しかし不思議と心は晴れやかだ。ここ最近で一番、羽のように軽いと感じる。
は音もなく目を伏せ、きゅっと唇を結ぶ。
それから少しばかり不満そうに
「……でもさ、さすがに連絡くらいは欲しかったよ。今日だってそう。何で連絡しなかったの」
ときつく責める様子はなく、ぽつりと呟いた。
返されたその言葉にやや拍子抜けしつつも、イワンは答える。
「本当にごめんなさい。もう、完全に終わったと思ったので」
自分で言葉にすると、改めて情けなく感じた。
晴れやかだった気持ちに少し陰りが出てくる。なんだか急に気まずくなったイワンが視線を泳がせ始めた時、は耐え切れないと言うかのように「ふっ」と吹き出した。
「終わりにする訳ないじゃん!それに前も言った通り、私はイワンのファン……ううん、今はそれ以上なので」
空気は冷たいのに、こんなにも暖かい。妙な気分だ。
そう感じた時には既に、イワンはの腕の中に在った。
嘗て自分を励ます言葉を綴っていた腕は今、時を越えて自分自身を強く包んでいる。
輝かしい幸福感と、先日貰った花の香りに似た甘い匂いに肺を満たされるのを感じ、イワンはそっと目を閉じる。
「好きだよ、イワン。今のあなたが好い」