Day Dripper

Wednesday


その翌日、私は仕事を終えると自宅近くのスーパーで手早く買い物を済ませ、足早に帰宅した。
ライアンのマネージャーをしていた当時はこんなに早く退勤できることは稀であったため、未だに茜色に染まる空を見ながら帰路につくのは(当然何も疚しいことは無いのだが)些か罪悪感を感じる。
よくよく考えれば以前の勤務形態の方が異常であることは明らかなのだが、これは彼曰く「真面目すぎる」自分の性格上、仕方ないのかもしれない。

昨日連絡を取ったときはライアンは午後からフリーだと言っていたが、うちに来る前に済ませておきたい用事があるとのことで、「7時頃行く」と帰っている最中に連絡があった。
部屋の片付けもしておきたかったため、寧ろありがたい。そう思いながら了承する旨をメールで送ると、時間に余裕を持って家事と食事の用意を済ませた。
2人の休みが重なるのは週末であることが殆どであるため、ウィークデイにこうして2人で会うのはそこそこに珍しいことである。
慣れていないせいか、少しだけくすぐったい。そんな、変に軽い気持ちが私の胸中をとぷりと満たしていた。
やるべきことを全てやり終え、後は彼の訪れを待つのみ。
ソファに腰を下ろしながら壁に掛かった時計に目をやると、もう間もなく約束の時間を指そうとしているところだった。
何故だか落ち着かずテレビを点けるも、いまいち内容が頭に入ってこない。
チャンネルを意味なく変えてみたり、ぽふぽふと隣にあるクッションを叩いてみたり、妙にそわそわしている自分が自分で可笑しい。
その理由は――まあ、考えなくてもなんとなくわかるのだが、敢えて言葉にする必要も無いだろう。
好きな人に会えるのに、喜ばない人間がどこに居よう。居たら今すぐここへ連れてきて欲しいくらいだ。私はそんなことを1人頭の中で考えながら、静かに苦い笑みを口元に湛えた。

――と、その時、着信を告げる音が一人きりの部屋に鳴り響く。
テーブルの上に置かれた電話に手を伸ばしつつ無機質な電子音に眉を顰めたが、画面に表示された相手の名前を確認した瞬間、私は眉間の皺を更に深くした。

「…もしもし?」
ややもったいぶりながら通話ボタンを押し、私は電話の向こうの相手――ライアンに呼びかける。
街中に居るのか、電話越しに耳障りな車の音や風の音、行き交う人の声、サイレンのような音などが聞こえてくる。
それらにかき消されないように彼は声を張り上げ、

『ごめん~、ちゃん』

開口一番、私に謝罪の言葉を述べた。
「へ?」
突然の謝罪に不信感を募らせながら横目で再び時計を確認すると、丁度7時を指していた。
時間。謝る彼。この2つのことから推測するに、きっとこれは今日の約束に関する連絡に違いない。
しかし妙だ、と私は思った。
2人が付き合い始める前、まだ売れっ子ヒーローとそのマネージャーという仕事上の関係であった当時から、とにかく彼は時間にルーズであった。
どうしても、何が何でも、という場合を除き、彼が約束の時間通り現場に現れた事は、私が彼のマネージャーとして過ごした1年間の間で数回。片手で足りる程度の回数しかなかった筈だ。
最初の頃は戸惑いもあったが、哀しいことに一緒に過ごすうちにお互いに慣れてきてしまったのも事実であり、数十分程度の遅刻は当然と認識し、敢えてこちらから急かすようなこともしなかったし、勿論彼からも遅刻の連絡など来たことなど一度も無かった。
いつだって嘘なのか本当なのかわかりにくいにも程がある遅刻の言い訳をつらつらと並べ、へらりと憎たらしい顔で笑いながら現場に現れる。
そんな彼が、約束の時間ぴったりにわざわざ私に連絡を寄越すなんて。
これは何かあったに違いない。何か、事件や、事故や――

(事件、事故、)

――頭の中でぱっと浮かんだ2つの単語に、私はハッとする。
嗚呼、そうだった。彼の職業は、

『出動要請、出て』
「………。あぁ…」

予想通り。
私は溜息と相槌の間のような息を漏らした。
『ほんっとごめんなー!何時になるかわかんないから、今日やっぱ行くのやめるわ』
「……わかった」
昼でも夜でも、その時何をしていようと事件が起これば駆けつけなければならない。
それが彼、ライアンの職業、ヒーローである。
彼と出会って1年とちょっと。ずっと1番近い場所で見てきたのだから、私にはわかっていた。わからなければならなかった。
私が声の震えを隠すように咳払いをし、「気をつけてね」と精一杯の明るい声で告げると、彼は電話の向こうで『おう!』と力強く答えた。
冷たい指先で通話終了のボタンを押すと同時に、私はずるずると崩れるようにソファから降り、そのまま床の上に仰向けに寝そべる。

(もう俺のマネージャーじゃねーんだから)

天井を空虚な目で見つめながら、何故かふと一昨日ライアンが何気なく言った一言が再び思い出され、そして私の喉元をじりじりと締め付ける。
今までにも似たようなことはあった。
別にこれが初めてのことではないし、今までもごく普通に、水を飲むかのようにすんなりと受け入れてきた。
しかし今日は、今日だけは違った。彼の言葉のせいだろうか。妙に複雑な感情が自分の中に蠢いているのだ。
心がぎしぎしと、不安定な音を奏でた。

息苦しさを感じながら私は手探りでリモコンを取り、チャンネルを変える。
間もなくしてHERO TVの中継が始まったが、まるで脳が情報を入れることを拒んでいるかのようにリポーターの声は全く私の耳に届かず、目で事件現場に駆けつけたライアンの姿だけを捉える。
私はゆっくりと身体を起こし、両足を胸に抱きかかえるように座り直しながら、

(前より近くに居るはずなのに、遠く感じるのは何故だろう)

ただただ、そんな考えが脳裏を過ぎる。